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他人の目が怖い

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今年から大学に入学した者です。

他人の目が怖くて仕方がありません。
気持ちに波があるのですが、
一番酷い時は満員電車すら怖く感じます。

「私の悪口を言っているんじゃないか」
「私がなにか悪いことをしたんじゃないか」
「恨まれるようなことをしたんじゃないか」

そのような事を勝手に考えてしまいます。
ひそひそ話をしている人を見ると余計に恐怖を感じます。

原因はおそらく、中学生の時にあったイジメだと私は思っています。

特に関わりのなかった、学年の中でも目立つ方の男子生徒数名からずっと悪口を、廊下で大きな声で言われ続けました。
無視することが一番だと思い、在学中は無視し続け、卒業した後、彼らと関わることはありませんでした。

それから3~4年ほど経ち、先日、彼らと最寄り駅ですれ違ったのです。
その頃にはもう高校も卒業していましたし、通っていた高校も自由な校風(一度不登校になり、編入で入学しました)だったので髪を染めていました。

「あんな髪色でまともな学校行ってねぇだろ」

また昔のように大きな声で言われました。

それからまた激しく他人を怖がるようになってしまい、今では大学の講義室に入ることすら恐怖です。

この癖が簡単に治るとは思っていません。
ただ少しでも改善できれば……
そう思い、質問させていただきました。

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅の必要性 「あなたが自分と話している」ことに気づく

私もむかしそういう風に思っていたことがありました。
人の顔を見る度にこのひとは私のことを嫌っているのじゃないかとか。
それって、よく観察してみてください、。
自分の思いなのです。
超高速の妄想増殖炉が自分の内側にあるのです。
相手には良いとか悪いとかついていません。
走っていたり、自転車に乗っていれば景色を見逃すことがあります。
歩いたり、立ち止まってよく見中れば分からないことって沢山あります。
坐禅とは、そういうものです。
日常忙しく動き回っている心のハタラキを立ち止まって、ゆっくり眺めてみると、相手の方ではなくて自分の思い方が自分を苦しめているだけであるという事がみえてきます。
自分がやっているに過ぎないという事を明らかになるまで自分の心の動きを心静かに見つめてみましょう。
ゆっくり、だからこそ対応できる事ってあるのです。
その人をみてアレコレ思うおばけ👻が自分の思いであると分かると、自分の思いに騙されなくなるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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