6つの命
最近わたしは6つの命を奪いました。
毎年軒下に、ムクドリが巣を作って雛が巣立っていくのですが、
今年は、家の外壁工事の為、どうしても巣を移動する必要がありました。
家族はどうしたもんかねぇと言いましたが、
私は雛鳥を助けて、他の場所に巣を移動させてあげれば、
親鳥が必ず気付いて世話を続けてくれると思って、便利屋に巣の移動を依頼しました。
でも実際、そんなに甘いものではありませんでした。
巣の移動は非常に難しく、移動中に2匹死んでしまいました。
どうしても助けたかったので、動物園や花鳥園にアドバイスをもらい、
日中は、元の巣に近い位置に巣箱を設置したら、なるべく関与しないでということで、
1日外出し、夜帰宅して、巣箱を覗くと、見慣れない細いホースのようなものが見え、反射的に悲鳴を上げていました。
急いで巣箱を地面に降ろし、中身をひっくり返すと、お腹の膨れたへびが草むらに逃げていきました。
そして、藁の中に、1匹だけ動く雛がいたのです。嬉しさと悲しさと恐怖で涙がどっと溢れ出てきました。
その子は次の日、物凄い声量で鳴き、お腹が空いたと私を呼ぶようになったのです。
たくましく力強く鳴く姿に、野生の生きる力を感じました。
前日までは動物園に保護してもらい、親鳥とは離れ離れになるけれど、絶対に生き抜いてほしいと思っていましたが、
この姿を見て、もう少し家で様子を見て、親鳥と会える機会を狙おうと実家の母と話しました。
もともとインコと暮らしていたので、トリには縁もあったんです。
このように、本当に元気に鳴いて、目も開いて私を見るようになったので、少し安心して、
次の日は仕事に行くことにし、朝も見てきたのですが、ちゃんと動いていたし、私を見てくれたので、
また週末帰るからと家をでたのですが、これが最後の別れになってしまいました。
後から知ったのですが、私が1日お世話した日は、初夏の気温で、わたしが仕事にでた日は通常の春の気温だったようです。
春の気温はまだ雛鳥には寒く、動物園の方によると、野鳥を育てるのは本当に難しいと言われました。
なんで巣を移動させたんだろう、すぐに動物園に保護してもらい、絶対に生きられる環境を優先しなかったんだろうと、自分が悪魔に思えて仕方ありません。命は重いと知っていたはずなのに、雛の姿を思い出すと、自分はなんてことをしたのだろうと悪魔に思えます。
自分が悪魔に思えます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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縁を尽くすのみ
目の前の命のためにできることを精一杯なさったのですね。それだけで素晴らしい事ではないでしょうか。
おっしゃる通り、命は重いものです。私が私の力で抱えきれるものではありません。つまり思い通りにできるものではありません。
動物園や花鳥園に持ち込んだところで受け入れてくれるかも、受け入れたとしても生きていけるかはわかりません。
生かそうと思えば生かせることができ、殺そうと思えば殺すことができるものではないということです。「絶対」はないのです。
同じような状況の動物たちがみな動物園に持ち込まれたら園はパンクしてしまいます。何かの命が終えることによって何かの命がつながることもあれば、私たちのように直接に何かの命を奪うことで自らの命をつなぐ者もいます。そのヘビもそうでしょう。
命の終わりに遇うこと、命を奪う事を通して命の尊さに気がつくのが私たちかもしれません。
また、この命はいい、この命は悪いと差別していることに気がつく中で、本来の命は平等であることに目覚めるのも私たちかもしれません。
いずれにしてもそれは私たちが生きて当然と思っている感覚や、私の縁あるものだけを守りたいと思う感覚が破られる瞬間です。
縁あれば生まれ、縁あれば死んでいく命を今生かされています。その中で精一杯のことをさせていただくのみです。
皐月様は今回精一杯目の前のご縁を尽くされたのではないでしょうか。しかし命は重いからこそ、ご縁は思い通りにはならないのです。
思い通りにならない命をいただきながら、「私が、私が」と叫んでいく。その煩悩こそが仏とのご縁なのです。
南無阿弥陀仏
合掌
6つの命のためにありがとう
皐月さん
6つの小さな命を守るために力を尽くした、一部始終を読んでとてもありがたく感じました。
人間はいつからか自然のなかで王のように君臨して、小さな命のことを軽んじるようになりました。自分たちの都合で自然を破壊して、そのために多くの地球に暮らす仲間を追いやっています。そのことに何の疑問もなく、痛みも感じることなく、仕方のないこととして片付けます。でもあなたは小さな6つの命のために、全力を尽くしました。結果は残念であったけれど、あなたの小さな命へのまなざしをありがたいと感じます。
自然界には弱肉強食という自然の掟があります。それは善悪や正邪を越えた自然のシステムです。巣を移動したのは人為的だったけど、軒下に巣をつくってしまったことが、この鳥たちの残念な判断でした。巣の移動は交通事故みたいなものです。
でも鳥たちは、命を守ろうとするためのあなたの温かな思いを受け、最期まで生きるために頑張りました。同じように蛇も生きるために頑張ったのです。雛を食べなければ死んでしまったかもしれません。でもその蛇も大きな動物に食べられてしまうかもしれません。そこに善悪はありません。
だから自然の命の循環に人は関与できないのです。誰の味方にもなれません。食べられる動物を助けたら、エサの獲れなかった動物は死んでしまいます。雛の味方にも蛇の味方にもなれません。蛇は空腹で餓死寸前だったかもしれません。蛇の立場になったら、エサがあってよかったねということになります。
仏教は「人類愛」ではありません。「生きとし生けるもの」への慈悲の教えです。そして、根本的にはその弱肉強食のシステムから脱出していくためのものです。小さく弱い命が食べられしまうのを悲しむのは、それは薄っぺらな感傷にすぎません。
悲しむのではなく、善悪を越えたもっと広く大きなまなざしで命をみつめていきます。地球上の命を俯瞰するならば、自分の力で助けられると思うのは傲慢な考えです。自然の営みは人知を超えています。人間もまた弱く小さな生き物にすぎません。できることは「すべての生きとしいけるものがしあわせであれ」と祈ることだけです。
6つの小さな命に向けたあなたの行為と思いはとても尊いものです。悪魔ではありません。小さな命ために尽力したあなたに合掌したい思いです。仙如
質問者からのお礼
有難いお言葉、ありがとうございます。
わたしが一人で勝手に雛を移動させたから、このような結果になってしまい、雛と親鳥に本当に酷い事をした人間だと思っていましたが、
それさえも傲慢な考えなのかと改めて思いました。
雛の声や温もり、肌触りを思い出すと、今も涙が溢れてきます。すごく辛くて悲しいのに、雛たちのことを忘れたくありません。
命や自然というものは、おっしゃる通り、誰にもわからないもので、ときに残酷で、これ以上あるのかという程の悲しさや後悔を生み出すものであり、藁の中に1匹の雛を見つけた瞬間のような、何事にも比喩し難い嬉しさを生み出すものなのですね。
また同じようなことが起こっても、わたしはきっと雛を助けたいと行動してしまい、また上手くいかず、涙し、命はコントロールできないものだと実感し、またあがいて繰り返すかもしれません。少しずつでも、命と正しく向き合えるよう、日々感謝し、6つの命と生きていきます。
本当にありがとうございました。