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年上の方からの恫喝

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

共通の趣味を持つとあるコミュニティに属しています。
その中には年齢職種問わず様々な方がおられます。

そして先日、そのコミュニティにとって一つの大きなターニングポイントがあったので飲み会を開催致しました。
会自体に参加された方の大多数はとても良かった、この趣味を持っていて 共通の趣味を持つ仲間と出会えて良かったととても喜ばれていました。

しかしその飲み会の席でのことです。
そのコミュニティの中では私は年下の方、かつ女性は私1人でした。
何度も面識のある年上の男性から「年下の癖に生意気だ、口の利き方がなってない」といきなり恫喝されました。
その場は更に年上の方が仲裁して頂き、事なきを得ましたが…
私なりに節度を持った対応をしてきたつもりですし、可能な限り態度や口の利き方にも気をつけてきたつもりです。

確かにその飲み会では年下ながら私が幹事をしており、幹事業務に手一杯な所もあり多少の無礼は働いたかもしれません。
ですが、あまりにも理解を越える出来事に 今までの楽しかった思い出も全て 振り返ればその事を思い出してしまう、つまりは嫌な出来事として記憶されてしまいました。

酒の場ではある程度の無礼は仕方ない とはいえ、彼も私もアルコールは全く入っていない状態、また後から話を伺った所、彼が恫喝した理由もほぼ八つ当たりであった との事でした。

心当たりは無かったものの、不快にさせたのは事実なので
後日謝罪した所彼は「その事についてなんとも思っていない、だから仲良くしましょう。 年相応の常識はありますよ」言っていましたが、正直常識がある方は年下に八つ当たりもしないし、まずは相手より先に謝罪するのではと私は思っています。

今後もコミュニティ等で彼とまた顔を合わせる可能性があると考えると辛いものがありますし、狭い趣味の世界なことを考えると、趣味を辞めるしかないのでしょうか。

そういう人だと割り切るにはあまりにも怖く嫌な思いをしてしまい、なんとも言えない気持ちです。思い出も全て台無しになってしまいましたし…

そのコミュニティで素敵な出会いが多かったですが、人付き合いとはなかなか難しいなと感じた次第です。
やはり年下女性である限り何を言われても我慢した方がいいのでしょうかね?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私は才能のある人は年下でも尊敬します。
そういう感覚を持った人たちと接すればいいのではないでしょうか。
プライドの強い人はメンドクサーです。
その人たちが優先しているの我上下関係であるならばあなたはあなたで付き合うべき人間を選んで自分と慣性の近しい人たちと接することを優先させればいいのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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