課題から逃げてしまう
いつもお世話になっております。大学生女子です。大学の課題に対する自分の向き合い方について、喝をいれていただこうと思い相談いたしました。
私が所属する歴史学科は、とにかく先行研究と史料を漁って考えをまとめることが求められています。対して、私は歴史オタクという程熱を入れている訳でもなく、加えて活字を読むことが苦手です。詳しく述べると、自分の興味の無い分野の活字を読もうと思うと、集中力が一気に無くなります。
大学で扱う文献もそうで、発表の参考文献は、一冊読み込むのもだらだら先延ばしにして、1~2日前に焦ってざっくり読みこみ急いでレジュメを仕上げるというパターンを何度も繰り返しています。
こうして騙し騙し二年間を過ごしたのですが、三年目の今年入ったゼミは、短いスパンでしっかりと研究を読み込みレジュメを作り発表を行うことになっています。今までのような付焼刃のレジュメでは、評価も下がるし同じゼミ生の前で恥をかく事は明確です。
それがわかっているのですが、いざ研究書を開くと本当に嫌になって、ずるずると後回しにし、発表当日の朝にできていれば奇跡という状態です。
この学科を選んで、このゼミを選んだのは私です。全て自分で決めた筈なのに、逃げてしまいます。これは私が持つ発達障害の、ADHDの特性としてよく挙げられますが、理由にはならない事は理解しています。
けれどこんな状況に立った時、まず何をすればいいと思いますか。向き合い方を変えてもう一度努力できるよう努めるべきでしょうか。それともADHDを理由に意識を低く持って、自分を労わるべきでしょうか。
ご回答よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
聞思修ではなく思→聞修ではいかが?
これまでは何か問題を与えられて、さあ、この問題を解きなさい。解き方も決まったやり方でやりなさい、というやりかたばかりでした。小、中、高まで。
仏教では、聞思修などと言います。まず聞いて(学んで)、その内容について考えて、それから実践するのです。
しかし、何を聞く(学ぶ)か、というところですでに自分の意志が入っているはずです。史学科を選んだのも、その意思の一つです。何か面白そうと思ったからではなかったでしょうか。その自分の考えを先にして、それから何を学ぶか必要なものを選んでよいと思います。
大学では自分で問題を見つけて自分で解決。解決しなくても推測できるほどには何かを提示することが本来の学問なのです。
が、高校までのクセと、ひょっとしたら大学教員側の面倒くささから、相変わらず課題を与えられて、それについて何かを言え、という感じが続いているかもしれません。興味ないものに興味が出ないのは当たり前ですよね。
課題を自分で探していいなら、自分の興味に沿って、課題が先に与えられるなら、まず、これまでの定説ではないことが言えるかどうかなど、自分で先に無理やり興味を作ってみてはいかがでしょうか。
人が中心の歴史なら、その人物像がレッテルになっているでしょうから、そうでない部分を探すとか、(豊臣秀吉とか暴君ネロとか)、事件が中心の歴史なら、研究されていない視点からとか、(戦争を一市民の視点で見るのは最近認められてきましたね)。
歴史は、人々の生きる営みですから、自分はこの部分に興味がある、と主張してよいと思います。その部分についての情報が少なければ、今はこれしか言えないけど、と言いながら、学界全体でもその視点からの研究が少ないということですから、そのような視点も必要だとアピールするくらいの気迫でいいと思います。
教員も、学部生にいきなり成果を求めていないと思います。問題を設定し解決するためにどのような視点や方法で研究するか、を見ているでしょう。教員が考えてもいなかったようなことを言われるとむしろ嬉しいものです。
禅の公案(クイズ) 歴史を学ぶのは「いつ」か?
私から仏の課題、クイズをさしあげます。
・その歴史を学ぶのはいつどこで誰が?
・歴史は過去の事ですが、それ扱うのはいつ誰がどこへ向かって?
・歴史と歴史観との違いとはなぁに?
・歴史とは何を学び、どう活用すれば歴史が活きるか?
一秒前はみんな過去。過去とはいつの事?
それを思い出すのはいつやっていることでしょうか?
たとえ歴史を学んで過去を扱っているように思えても本質はこの今という時代をリアルに生きて今呼吸をしているあなた自身。
今は大学生だそうですが、あなたの歴史を振り返ればかつて小学生、中学生だった時代もあります。さて、それを思い出すのはいつでしょう?
あなたも自身の過去の歴史から多くのことを学んでいるはずです。
歴史を学ぶことで見出される気づきは過去ではない。
誰も知らない角度、観点、学びを見出すのはあなた。
仏教という教えも多くの人たちは葬式だ法事だ程度にしか考えていないものでしょう。ですが、沈黙一つでも観る人によって、孤独であったり、寂しさであったり、虚無、わびしさ、緊張、無、安らぎであったりするでしょう。
ですが、本当の賢者、覚者、ものごとをよくよく見つめる力を高めた人たちにとっては僧ではありません。その静寂の中に救い、功徳を見出すことができるのです。
歴史も同じです。
その歴史の中で痛ましいこともあれば、目を覆いたくなるようなものもあるでしょう。真実だからです。
ですが歴史・今とは、どのように接触すべきものでしょうか?今日も今日であなたは誰かと話す。その際に学びもあれば、楽しい気づきもあるでしょう、許せないこともあるでしょう。ですが、人生も歴史も過去のことで許せないことがあったとしても、そこからこちら側の態度、視点、学び方を変えていくことで、大きく活路が開かれます。発見があります。気づきがあります。
あなたが発達障害があったとしても、それはそれが問題にならないときは、何でもありません。
むしろ、その与えられたギフト、力、スキル、能力、探求心は誰とも比べようのないものでしょう。
あなたこそが生きたこの世の歴史の活動体なのです。
たとえば過去を「~のせいで」と捉えれば闇しか見いだせないものでしょう。
ところが「~のおかげで」「それによって~✨」とより良い答えを見出さそうとする姿勢、菩提心があれば、そこから多くの気づき、功徳、福徳、導きを授かれるのです。
みんな違ってみんないい!
あm 様 相談ありがとうございます。
ADHDがあるからといって、ハードルを下げる必要はありません。
ADHDは一つの個性。ちょっと人と違うと、
発達障害とくくってしまいますが、それぞれ個性です。
みんな違ってみんないい!です。
そんな考えを持ってみませんか?
あなたはあなたのペースで学べばいいのです。
時間や人に縛られることはない。
だから、意識を高く持って自分をいたわってください。
意識を低く持つのではなく、意識を高く持って自分に思いやりを向けるのです。
強い思いやりを自分に向けることは、
勇気と粘り強さを生みます。
多動性を活かしていろんなことにトライできます。
あなたはあなたで、輝いていいのです。
あなたの人生はあなたが主人公。
あなたが今できること、それをすればそれでいいのです。
人生はそれで合格です。
心の支えにしてください。一礼
追伸:お礼メッセージありがとうございました。遅くても大丈夫。あなたはあなたで輝いている。これからも応援しますので、どうぞ遠慮なくまたご相談ください。再礼
質問者からのお礼
釋 孝修様
お返事が遅くなり申し訳ありません。
私のような人間こそ、自分のペースで学ぶことが大切ですね。自分の輝ける場所を探していこうと思います。
ありがとうございました。
丹下 覚元(たんげ かくげん)様
お返事が遅くなり申し訳ありません。
仏の課題、とても参考になりました。多角的な視点を持つことで、心も少し落ち着いて考えられるような気がします。
ありがとうございました。
藤本晃(慈照)様
お返事が遅くなり申し訳ありません。
私は本当に自分の興味のないことには全く行動ができません。自分から興味を持つように働きかけることに、これから頑張ってみます。