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近所で仲間はずれにされています

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隣近所とは仲が良く、夏場にはバーベキュー、冬は鍋にと子どもも年齢が近いのもあり誘ってもらっていましたが、昨年からだんだんと誘いが少なくなっています。うちに内緒でこそこそと出かけたり集まったりしているようです。ましてや、毎年一緒に行っていた花火大会や集まりなどにも呼ばれませんでした。可哀想なのは子ども特に長男で、なんでうちだけ呼ばれんの?と疎外感を感じて、最近は強がりを言ったり悪口を言ったりしています。
私が誰かにヘルプを出せれば良いのですが、仲の良い友達もいないし誰にも悩みを相談出来ずこのサイトにたどり着きました。
私は自分を変えたい。嫌なことを嫌と言いたい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛されるよりも愛したいという生き方のススメ

まず、何事も善意で受け止めることです。
仲間外れにされたにしても、お声がかからないにしても、人間は1人でいる時には何の条件も無しに一人なのです。
私なんぞは人といても一人です。自分が自分のいる所で自分するのみ。
それが仏教の天上天下唯我独尊のありようです。
あなたもこれをご覧の時は、色々ごたごたがあったでしょうが、一人で読んでおられるはずです。お子さんもお子さんで最高最上の一人(いちにん)。あなたもあなたで最高最上の一人なのです。
今度、ご自宅で人をお招きしたり、主催者になって誰かを誘ってみてください。
今まで誘ってくださったその方々のご苦労や気疲れが分かると思います。
別に仲間外れではなく、お互い気楽な方がいいと思われたのではないでしょうか。
人様のお子さんを預かるのってものすごく気を使いますし、昨今のような様々な事件が起こる中でスト、万が一あなたのお子さんに何かあった時は責任が取れません。
あなたがここでこのような形で書き込まれておられるその御性格もおそらく相手に何らかの形で伝わっているのかもしれません。
気楽な接し方、気遣い無しの関わり、邪推、臆測、裏読み、深読み無しの人間関係をすることです。
「私たちは仲間外れにされた」と思っているのは、多分、ご自身だけのものです。
仮にそうだとしても、お互い気遣い無しで良くなったと思うことです。
実際の事実には、こちらがどう思っても、事実確認をされたわけでもないのでしょうから、善意ではない臆測や邪推をまず、しなくなることから修行してください。
実際にハブられちゃってたとしたら、それはその時で相談に乗りますから、まず、ご自身の中でのハブられ感を行ったんストップしときまひょか。
物事は悪く考えれば相手の善意ですら悪く思えるものです。
お墓で花が抜かれることがよくありますが、皆さんいたずらかと思われるのですが、本当はカラスが水を飲むのに引っこ抜いただけだったのです。
事実、実際はこちらの臆測とはまるで別なのです。
今まで良くしてもらった方なのでしょうから、今度お返しやお気持ちなどをしてみてください。
実際の実物さんと会えば、ああ、そうじゃなかったんだという事がハッキリするでしょう。
してもらう、より、してあげるのです。
それこそ最高の子供への教育です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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