足元を掬われるように感じるとき
順調にものごとが進み始めたとき、急にうまくいかなくなったり、
違うところでふいに足元を掬われるようなことがあります。
自分のなにかが間違っているから、道理が違っているから、
などと自責的に考え、自分の至らなさからいい勉強をした、
と考えるのですが、一方で、
「どうしてこんなところで…」「いったい私の何がいけないの?」
と恨みがましく思う心も存在します。
「邪魔をされた」とも感じ、誰かのせいにしたり、
放り出したくなったりします。
こういった出来事があった時、どのように考えればいいのでしょうか。
また、自分を「折れない」自分にし、起こった出来事を
誰かのせいにしないためには、どのようにすればよろしいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
諸行無常・宝くじ人生・自業自得と思え
すべては壊れます。
壊れないことを普通だと思うから、苦悩が増すのです。
私は、何年か前に、職場の人と合同で宝くじを買ったことがあります。
ほぼ当たらないとわかっていますが、一応、当選発表まではそれなりに楽しく、いざ外れたからといって、がっかりはしません。
で、宝くじのお金は福祉などに使われるから社会の役に立ったしまぁいいか、と思えます。
人生のいろんな企みも、宝くじのように、外れてあたりまえだが、外れが確定するまでに充分楽しめた、しかも多少は他人の役に立った、という感じの活動にしてはどうでしょうか?
あと、誰かのせいにしないためには、輪廻転生・自業自得を考えることです。
はるか昔からの自分の修行が足りなかったから、煩悩のせいで苦悩が多いのだ、と過去の自分のせいにしちゃえばよいのです。
大槻ケンヂの歌詞にこんなのがあります。
「猫の中には当たりと外れがあってさ 小さな舌の裏それが書いてある 僕の子猫は やっぱり外れたけれど 気にしちゃいないぜ 大好きだからさ」
そもそも「やりたくもない」?
急にうまく行かなくなったりする→放り出したくなる、というのは、まず「そもそも、やりたくない事をしている」という事でしょうか?ご自身で価値を感じていないこと?できれば手放したい事?その辺りは、まず振り返ってみて頂きたいとは思います。
さて、問題の核心は「自責的になって」という事だと思いますが、これは、どの程度具体的に行っていらっしゃるでしょうか?
野球解説者の野村克也さんは、監督をしていた経験から、「勝ちに不思議の勝ちあり,負けに不思議の負けなし」という言葉を述べています(実際には江戸時代の大名の言葉だそうです)。
何だか分からない(自分は明確に意識していない)が不思議の力で勝つということはあっても、負けた・失敗した時は(後から振り返って)必ず何らか「道理を外れている・術(すべ)を間違えている」というのです。もちろん「自分が」です。全ての事柄は独りぼっちで行っているのではありませんが、その人間関係も含めて「道」か「術」に問題があると。
で、問題は「道」や「術」をどの程度具体的に検証するか?という事ですね。それはメンドクサイことであるのは間違いありませんが、それを掴んで変化を起こしていけば、次に巧くいく可能性はグンと上がる訳です。そういった蓄積あればこそ、人生後半に向けての知恵がついてくると思いますよ。
「どうして!」「なんで!」と言う時、実は人間、それを探求しようとしていない事が多いです。「自分はイヤだと思う・困っている」の表明に過ぎず、周りに気づいて貰ってフォローしてもらうための言葉になっています(自分に向けている時は、思考停止です)。それを真正面から突き詰めてみる。もしかしたら仏様でないと解決できないこともあるでしょうけれど、それはそれ、「これは私にはどうにもならないわ」と見極めることができれば、放っておくことができます。ウジウジしないで済みます。
人がふたり居れば、「邪魔された」時もあるでしょうし「助けられた」時もあるでしょう。どちらも「あなたがそう感じている」のであって、「相手はそんな積もりはない」事も往々にしてあります。他人との関係で、心が「折れない」よりも「したたか(強か)」でありたいですね。
質問者からのお礼
うわー、刺さります。ありがとうございます。「うまくいかない」という前提をそもそもしていない、傲慢な自分がいました。そもそも本当にしたいと望んでいるか、だめならなぜダメなのかは、は、追及してもみませんでした。自分の道やすべが間違っていても自業自得、そういう認め(諦め)という潔さがないですね。謙虚に、でも強かにいきたいです。御礼遅くなりましたがありがとうございました。