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自分の運命に納得できない時は

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家庭にまつわる事に幼い頃から今まで悩んできて、最近はもう解決などできない状況だと分かりました。

自分の運命だと受け入れて生きるしかないと頭ではわかっているのですが、心では「どうして自分の家庭はこうなんだ」という悔しさで苦しいのです。

普通の家庭など無い、それぞれの家庭に悩みはあるという事はわかっています。ですが周りを見渡しても変な話ですが、家庭の不幸度合いで見るとけっこうなレベルだと思うのです。そして解決法もありません。

どうしてうちは、なぜこうなんだと、自分の運命に対して憎しみを感じます。そして受け入れることができません。それが苦しくて苦しくて、時々ふとした時に闇に飲まれすごく落ち込みます。

自分の運命に納得できない場合は、どうしたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私の仏道の先輩がこんなお話をなさっていました。
>庭の雑草が多すぎて、抜いても抜いても追い付かないなら、花や作物を植えると良い。花や作物が植わっている分だけは、生えてくる雑草が減る。だからできるだけたくさん植えると良い。植えれば植えた分だけ、雑草が生えてこなくなる。人間の心も同じ。坐禅をしたり、修行をして善い行いをいっぱいすれば、悪い行いは出てこなくなる。同時に悪い心も湧かなくなる。

ジャスミン茶さま、きっと職場の環境が好転していないのではないでしょうか?あるいはひょっとしたら退職なさったのかも?いずれにしても、生活環境に充実感が無さ過ぎてグルグルと思い悩んでいらっしゃるのではないかなと感じます。

自分の運命に納得するには…こういうことを申し上げるのは心苦しいのですが、きっと納得はできないと思います。雑草を抜いても抜いてもすぐに生えてくるように、どんなに心の有り様を模索してもすぐに闇は迫ってくるでしょう。だから祖国を滅ぼされ、仏教教団のリーダーの後継ぎにと目をかけていた愛弟子2人と次々に死別し、どこに行っても異教徒に迫害され、この世界は一切皆苦だ!と宣言したお釈迦さまは毎日毎日、坐禅をなさったのです。坐禅をして、坐禅を『楽しんだ』のです。そうして心にたくさんの花や作物を植えたわけです。

幸い、Hasunohaのお坊さんの多くは「ウチのお寺に来て下さい!」という方々です。アポ取ってから行き、 非日常の空間で、生活と運命、そして自分そのものを忘れて何かさせてもらってみればはいかがですか?きっと気が晴れると思いますよ。東京から広島の私のお寺に…とは言いづらいですけど(笑)
画面上の「お坊さん一覧」をポチして下さい。すると最初に丹下師と邦元師が出てきます。丹下師は回答に「詳しくはウチのお寺に来て下さい。話をしましょう」的なことを書くお方ですし、邦元師はプロフに坐禅会や写経会、お茶会でお寺を開いていますとあります。距離的にも行けなくはない距離でしょうから、ちょっと相談してみてはいかがでしょう?

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

「それでも、もっと悲惨な中でも平気な人がいるのは何故か?」

人間の苦しみには比較はなかなかできませんが、それでも仮に全日本地域別不幸NO.1選手権を各県、全国レベルで開催したとしたら、その中に同じような苦境にあっても、運命を呪ったりせず、中には平然とされているケロリンな方が必ずおられるはずです。
そこでもう一度タイトルを。
つまり、あなたのお悩みは不幸な境遇ではなく、物事に対する反発心であると考えて頂ければいいのです。不幸な境遇レベルはあなたと同等な方、もしくはそれ以上の方もいるはずだからです。
物事に対する反発心。
嫌だ、苦しい、逃げたい、ふざけんな、イライラ、ムカムカ、あ゛ーーー!!!
という反発心が、出るか出ないかの差、だけなのです。
だから仏教は万人を救い得る。
物事に対する事前の理想、期待、思い描きが強い人は反発心がアー!チキショー!とばかりバンバンでます。
その原因は、最初から・あらかじめ・直前まで「こうあるべきだ」と思っているからです。
他の人に比べて自分は良くない、という比較が生じているから、
「何で自分だけこんなことに…」といって、運命のせいにしてしまうのです。
勿論、運命というものは仏教では全否定しています。
因と縁によっての結果ですから、それを断ち切る、好転する、より良いものに働きかけていくことはできるでしょう。
あなたが今置かれている状況と相手が変わらないにせよ、それは
冷たいようでも外の人の事だと思えばいいのです。
あなたはあなたを生きる。でないと某韓流ドラマの某ヨン様のサブキャラの人みたく介護ノイローゼで死んでしまいます。
あなたがそこから精神的に分離、独立、離脱、影響を受けないポジションに位置する、そういう関わり方を空間的にも精神的にも対処することで、苦は苦なのですが、ただ思い通りにならんという「苦」に変わります。
苦しいの苦から、ただ変えられない、思い通りにならん苦になる。
思い通りにならないちゅーことは、この世の全てがそういう面を持っていますから、そこではじめてあなたは「誰もが平等じゃん目線」になります。
そうして初めて、出来事に向かっている時の反応が、過剰にならなくなる、ありのママもパパもありのままに見られる目線を養う機会を得ることができるでしょう。
回答数は1000字に限られていますので、納得いかなければ禅会にどうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

大慈様、丹下様ありがとうございます。
お二方のご回答を読ませていただき、自分の未熟さを感じています。
確かに私の中には理想の家族像というものがあると思います。それがこうあるべきという気持ちを強くしているとも思います。苦しいの苦から思い通りにならない苦へという発想自体ありませんでしたので、大変参考になるご回答ありがとうございました。今一度考えてみたいと思います。

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