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親からの反対

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有り難し有り難し 11

とても苦しくて、話させて下さい。

私は今交際して半年の彼がいます。。そして母親から彼との交際を反対をされています。

反対されてる理由として、私が彼の家族構成を知らず半ば無理やり聞き出した際に彼のお母様が心の病があり、親戚にも心の病を持った人がいたというのを聞き、私が困惑してしまい、母親に泣きついたからなのです。。

一度は別れると言ったのですが、、今はそんな大好きな彼を否定した事、また偏見を持った自分を悔い、彼と話合い結果向き合う事になりました。

ただ母親からは話も聞きたくない、別れると言っていたのに今更なんで、普通の幸せを持って欲しいと言われ、話の場すら設けて貰えません。

自分が誤った行動をしてしまったとはいえ、反対されると辛いです。。また同じ女性として母親の気持ちもわからなくもないから、余計に辛いです。。。

ここにきて自分は大切にされていたという事を改めて痛感し、守られて生きてきたんだな思うと余計に母親に申し訳なくなります。。

それでも彼と一緒にいたいという気持ちも同じく強いのです。1人の人として彼を尊敬してます。

どう答えを出したら良いのか、全てうまくとは言えないけれども、せめて彼を1人の人として見てもらえないか悩んでます。。

父親にはまだ話しておらず、これから家族会議があります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなた方が今まさに心の病では

相手のご家族が病だとか、心の病を抱えているということを聞いて、あなたたちご家族の心が今まさにどうなっていますか?
そういうのも一種の心の病というべきものです。
そんな事を気にされない方々もいる。
他人さまが病だとかではなく、自分たちに目を向けてみましょう。
他人さまが心の病であると、周りが言っていても本人様はまったく病を問題にされていないケースだってあるのです。
私は今、足を負傷して杖なしでは歩けませんが、こうして何不自由なく回答しています。
あなたが相手の家族に病の人がいる言うことを聴いて過剰に反応している、その心こそやましいとご自身で感じられませんでしょうか?
そういう方々は病だったら何か不完全なのでしょうか。
相手を好きだとか愛するというのはそういう心も受け止めたり、分かり合ったり、同じ病を抱えておられる人間同士が丁寧に支え合っていくことも愛なのではないでしょうか。
医師から診断された心の病だけが病であると思わないことです。
医師から診断されていなくても、病んだ考え方がこの世にあるということを弁えておきましょう。そういう心の闇、病み、止みを救うものこそが仏教です。
あなた方のご家族がそういうことを学んでいきませんと、いつまでたっても相手を悪く見てしまうと思います。ああ、相手にひどい気持ちを持ってしまったなぁということから、家族として反省材料にして、あなた方のご家族の今後の人間性のテーマとしてみてください。
「何をもって病となすべきか」
「如何なる心をやむというべきか」
「健全健康であった今の皆さんの心は本当に健全健康か」
病はそれを病としてことさらに病い化、病い視する、その心こそ、ではないでしょうか。
私は、これを入力中、杖なしでは歩けない状態なのですが、足の痛みすら忘れていました。
何を言っているかをよく考えてみてください。ご参考まで。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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