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親の老後について

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

私は独身で、兄一人は既婚、もう一人は独身で一人暮らしをしています。

今、一番の悩みが親の老後です。
正直、父親はお金にいいかげんで、子供にお金を借りようとします。
体を壊してからは、体に気遣うことなく好き勝手していたので、悪くなる
一方であまり働かなくなりました。
老後についても子どもがなんとかしてくれると思っています。

母は、そんな父を支えながらも私達子供の為とパートを掛け持ちしながら
一生懸命育ててくれました。
なので、今はみんな成人して自分の時間や自分の為にお金を使えるように
なりましたが、貯金がたくさんある訳ではなく老後の年金暮らしは厳しい状況だと思います。
来年、定年になり仕事を辞めることになります。

その後について、兄嫁と意見が合いません。
私達兄弟は、これからの生活のこと、お金のことも含め考えるつもりでいます。
兄嫁は、兄が長男だからといって兄に負担が全部くるのはおかしいとか、
母が年に1回の旅行ですらそのお金があるなら、老後の為に貯金すべきだといいます。
母の苦労も知らずに、勝手なことを言うのが凄く腹が立ちます。
今まで、兄は結婚しても自分の小遣いから少し母にお金を渡していました。
その行為すら、兄弟が同居しているのにお金を渡すのはおかしいと言って、
お金も入れなくなりました。
現在、実家の近く住んでいても顔を見せることなく自分の生活のことしか
考えてないように感じます。
じゃぁ、あなた達は母の為に何を今してくれているのかと思います。
言い方悪いですが、母の病院の付添いや行きたいとこに連れて行ったり、少ない休みの中、私や一人暮らしの兄も帰れるときに帰ってきてしています。
ちなみに兄自体は、私の意見に納得してくれていますが奥さんに説明しても
理解してもらえないとのことです。

話が長くなって申し訳ありません。
ただ、どうしたら私たちの意見に納得してくれるのか困っています。
何かアドバイスをお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

納得はしない と 思っておきましょう

こう考えてください。
人は自分の生活が第一優先である、と。
兄嫁も、親御さんも、あなたも。
皆守るべきものがある。
あなたも自分の考えを固守したい。
「わたしがこうしたい」
「わたしはこうしたい」を一旦、離れることです。
その前に、親御さんはどうしてほしいのか。
自分の生んだ子供たちが水面下でそのような精神的なバトルを繰り広げている事を知ったらそれはそれで苦しいものです。
介護施設に言った時、ご年配の方からお話を聴きました。
何かしてほしいことがあったら、紙に書いてください、と申し上げました。
すると、ある方が「子供たちが私の好きなようにさせてくれません。」
その方は、お子さんたちが「親である自分よりも、子供たちが自分の好きなようにやろうとしている」ことに迷惑をしていました。
この場合、主役は誰でしょうか?
第一優先すべきは、いざ、本当に介護が必要になった時に、親御さんがどうしてほしいのか。
そっちが優先されるべきことであって、義理のお姉さんや、あなたがどうこういうことではないはずです。
まず、わが事を先とせず。
本当に聞いてあげるべき方の声に耳を傾けることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
おっしゃる通り、誰の気持ちを優先すべきか忘れていました。
今の自分の考え方は、兄嫁とかわりませんね。
自分たちの考えではなく、母の考えを聞いて話し合いをしたいと思います。

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