信心ってなに?死んだ祖母に依存する父に怒っています
こんにちは。どうしようもなくなってしまい、悩んだ末、相談させて頂きます。
今日、祖母の一周忌に行ってきました。祖母は父方のお母さんです。父のお父さん(わたしの祖父)は、わたしの父が小学生の時に亡くなって、それ以来、父は祖母と二人暮らしをしてきました。祖母と母は、とても仲が悪かったです。なぜなら、祖母がありえないくらい自己中心的な人間だったからです。(亡くなったのにこんな言い方をしてごめんなさい)父も父で、祖母のことばかり庇って、いつも祖母の味方です。なので、家族はよくけんかをしていました。
一年前に祖母が亡くなりましたが、それでも父は祖母ばかり気にしています。今日、一周忌に行ってきましたが、行く前にいきなり父が、「仏壇に置くご本尊様を買ったから。」と言い出したのです!
わたしは父がご本尊様を勝手に買ったこと、そして一周忌の際に命を入れてもらう?ことを待合室で知りました。わたしは聞いたときは意味がわかりませんでした。勝手にそんな大切なことを決めて勝手に買うなんて。
わたしは、毎日仏壇と神棚のごはんやお水をあげて手を合わせます。家族のために、就職活動頑張りますって言います。わたしは、家族が幸せになるように、と思い、全力で信心してきたつもりでした。
なのに父に勝手なことをされて、お坊さんがお経をあげてくれている最中も怒りしかありませんでした。みんなでご本尊様を置こうねって話し合って納得しなくては命入れなんてできないと思っています。みんなで大切にするから買おうね。って納得しなくちゃただの木だと思っています。
大泣きしながら、みんなが納得してないのに命なんて入らないよと言うと、父は、「俺がやりたかったんだよ!!!」とだけ。
信心って、今生きている人を大切にした上でするべきものだと思っていました。なのに、父はいつも家族の大切なこれからのことや、問題を解決しようとしません。でも死んだ祖母のことは考えられるのです。その考える容量があるなら生きてる家族のことを考えてよ、と怒っています。
私がこれは悪いのですが、お墓詣りのとき花束を地面に投げつけてしまいました。父や祖母に腹が立ってしまって。父とは今、口をきいていません。
長くなりましたが、信心するって何かわからなくなりました。
また、父がこんなので、わたしの家はどうなるのか…と不安な気持ちでいっぱいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
法には先祖供養しろなどとは書いてない。が、そこじゃない。
信心とは、厳密な意味を言えば「仏様の教えを実践する」ことであり、死者に思いを馳せることではありません。
仏様のご意思を述べられたとされる法華経にはこの現代に最も有効な修行手段として『誰に向かっても手を合わせ、尊重し敬う』という方法が書いています。
誰でもです。
ですから、祖母に手を合わせることは間違いではない。
ご家族を尊重できてないことは明確に間違っています。
でも、本当にそこが原因なのでしょうか?
お父さんにとっては、たったひとりのお母さんだったのです。
悪いところもあった。自分の家族が腹を立てていたことも感じていたでしょう。
しかし、それでも。自分を生み、育ててくれた恩を感じていたのかもしれません。
自分にとって大切なものを家族が嫌っている。
そのことを感じ取ったお父さんが、勝手な行動を取ってしまうのかもしれませんよ。
貴方の怒りも、大切な自分、そして自分を産んでくれたお母さんをないがしろにされている痛みからのものでしょう。
お父さんもまた、(原因はどうあれ)自分とお母さんをないがしろにされている痛みがあったのではないでしょうか。
立場が違えば価値も意味も全く違うのです。
お父さんをかばっているのではありません。
両者が歩み寄れないときというのは、あなた自身から優しくしてあげたほうがよい。
なぜなら、歩み寄れないままもっと傷つくのはあなた自身なのだから。
信心とは
みのすけ様
大変なお悩みを抱えていらっしゃること、よくぞ打ち明けられましたね。
「信心とはなにか」
これは私たち専門家とされるお坊さんでさえ、日々問われ続けていることだと思います。恥ずかしながら、私の申し上げる内容も、いまだ信心及ばぬ一人の僧侶の戯れ言でしかないでしょう。
「信心って、今生きている人を大切にした上でするべきものだと思っていました。」
「わたしは、家族が幸せになるように、と思い、全力で信心してきたつもりでした。」
みのすけさんのお言葉を聞いて胸が熱くなりました。いてもたってもいられぬほどの想いが伝わります。お父さまやおばあさまにそれだけ腹を立てるのは、その想いがあるからでしょう。あなたは何も間違っておりません。花束を地面に投げつけるほどの想い。みのすけさんの、お父さまをはじめ家族を想う一途な愛があるからこそでしょう。
冷めた家族なら、親が何しようが「あっそう、勝手にすれば?」で終わってしまうところ。お父さまは非常にもったいないですね(笑)あなたのような娘さんを怒らせてしまって。
お父さまの苦しみはいったい何なのでしょう。
けいじょう様もおっしゃられていますように、自分のたったひとりの母親が、たったひとりの妻、そして娘のあなたに嫌われているのです。おばあ様のことはだれが支えてくれるのでしょう。亡くなってなお嫌われることこそ息子であるお父さまにとってつらいことはないのではないでしょうか。
私は勝手ながら、信心とは、「相手をゆるし、支える心」だと思っています。シンプルですがこれほど難しいことはありません。どんなことをされても許せというのか。そう思われるでしょう。しかしできないなりに自分の中で問い続けるうちに、ふっとどこからかあらわれてくるもの、と私は思います。自分ひとりでつくるものではないのです。
信心と正義感は違うものです。根本となるパッション(情熱)は同じかもしれません。ただ現れ方が違います。信心は「自分が~すべきである」とか、「自分がこうしたい」と考える正義感とは、またちがう心のありようです。支えられて育つものかもしれません。
みのすけさんは、どなたか支えてくれている方がいらっしゃいますか?
私ではなく、きっとその方が信心というものを教えて下さるでしょう。
もしかしたらその方は、お父さまかもしれませんよ。
信心は個人個人の自由
お父様がご本尊を拝みたい、これはお父様の信仰の自由がありますから、たとえ親子でも、あなたの思いどおりにさせることはできないのです。
あなたは、走ってこけたことはありますか?
タンスの角に足をぶつけたことはありますか?
自分の身体でさえ自分の思いどおりに動かせないのです。
ましてや、親子でも自分自身じゃない他人なので、あなたの思い通りに動いてくれなくて普通なのです。
お父様の心も身体も、あなたの所有物ではないのです。
質問者からのお礼
お返事いただき、とても感謝しています。ありがとうございます。
けいじょう様
立場が違えば価値観が違う。このことは自分の中で大切にしてきたとこだったのに、感情的になってしまって忘れてしまっていたかもしれません。まだやはり、気持ちの整理がつききれていないので今日から歩み寄ることは難しいですが、私から歩み寄ろうと思います。私だけでなく、父のためにも家族のためにも。とても勉強になりました。ありがとうございました。
吉井浩文 様
お返事を読んでいて、思わず泣いてしまいました。自分がなんであんなに泣いたのか、怒ったのか、花束を投げつけたのか。それは自分が家族を大切に思ってたからだと気付きました。今、自分のせいで、家族が笑えなくなっています。信心が、『相手をゆるし、支える心』であるなら、私はちゃんと向き合ってゆるして支えていきたいと思います。信心というものが少しわかったような気がします。時間はかかりますが、信心、頑張ってみます。お返事、感動しました。ありがとうございました。