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彼氏との交際、結婚について。

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私は高校3年から、約8年お付き合いしている彼氏がいます。
彼とは高校、大学生時代はあまりいい関係性ではなく、いわゆる共依存の状態で、私が彼をよく縛り付けていました。
そのため、彼は他の女性が気になることが増え、私たちの関係性はより良くないものになっていきました。

そんな状態から、私は彼と自身の親を巻き込む喧嘩をしてしまいました。
そこから、彼が私と改めて向き合い、私も彼を追い込んでしまったことなど改めて向き合い、二人で新しいスタートをしました。

しかし、親は私の状態を知っていますから、心配し交際を反対しております。
親の気持ち、親に心配ばかりかけてきたこと、本当に反省しております。
喧嘩をしてから約4年が経ちました。私たちはあれから少しづつですが、成長してきました。
私は親をに対する態度や、彼に対する態度も改め、仕事も精一杯努めております。

今年の6月に一度両親に、彼に会ってほしいと持ちかけました。
それは結婚を前提にお付き合いをしているからです。
その時は7月のこの日と提示したのですが、断られてしまいましたので、親の気持ちを尊重し感情的にならず、了承しました。

一度両親に合わせたかったのは、4月に籍を入れたいという話をしたかったのもありました。
親が、彼に会いたくない理由もわかります。けど会わなければわからないこともあると、私は思います。

そして4月の結婚に向けて、彼と9月頃に一緒に生活をしてみようという話になりました。

親に心配ばかりかけている私ですが、一度親元を離れて相手と生活を共にしようと思います。
生半可な気持ちで一緒に過ごすのではなく、相手を尊重し思いやっていくために一緒に生活をしていきたいと思っているからです。

親から反対されて、勝手にしろと言われてしまったり、相手に会う気はさらさらなかったり、そのような場合にも、私が彼と生活を共にしていくのだから、「わかりました。心配かけてごめんなさい、これから二人で頑張っていきます。」と言い出て行こうと思います。

私のこれからの人生は私が決めて、失敗をしてしまっても私の責任です。
こんな娘でごめんなさいと思う反面、私は私の人生だから自分で選択をすると考えています。

言いたい事がまとまらず、わかりにくい文章になってしまい申し訳ございません。
ご回答よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

彼はあなたの思い通りにはならない

だからこそ、つなぎとめる心は愛であり慈悲であり、尽くすこころです。
彼が他の女性に気が向いてしまうのは仕方のないことでもあるのです。
長年付き合っていれば他の女性と付き合ってみたいという気持ちも出てくるでしょうし、あなたとの関係がうまくいかなければ当然離れていきます。
こちらがいくら尽くしても人の心は変えられません。
ですが、見返りを求めない愛は自分も傷つけることもなく、相手も幸せにする力です。
フラれたから恨む、他の人に気が向いたから許せない、私がこうしているのに思い通りにならない、というのは全部自分を中心に相手をみた姿でもあります。
相手の心は相手次第。
相手の本心は相手の本心が知っているものです。
この世には絶対的なルールはありません。
彼でなければいけない。
彼の恋人があなたでなければならない、という絶対的な決まりはありません。
そういう心はないかもしれませんが、恋愛においては、いくら好きな相手であっても、相手とは自立・独立・分離の精神を見失ってはいけません。
そして、相手だと思っているものが実は自分の彼に対する自分の中のセルフイメージばかりを相手にしていて本人に出会っていないということもあります。
あなたが一生付き合うべき人は自分自身の心です。
自分の心との上手な付き合いができれば、彼とのコミュニケーションもうまくいきますし、親御さんとのコミュニケ―ションも感情的にならずにうまくいきます。
私も結婚をしてますが、男女関係において最も大事なのは、もちろん愛や好意、善意は大切ですが、相手と接するこの自分自身がちゃんとはっきりしていること。心が穏やかであること。自分子会話をせず実物の相手とちゃんと対話をすること。そして、相手の尊厳を尊重して「自分の」という心を過剰に働かせずに接することであるように感じます。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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