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慢心100%!?愚の自覚がなくなってる気がする。

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

いつもお世話になっております。
近頃、「あの人たちみたいになりたくない」という考えから、変なお節介が止まりません。
✳︎
あの人たちというのは、私の親やその友人知人、特に母方の親戚です。
マイノリティの人たちや見えない何かに怯えている人たち、特定業種の人たちを訳のわからない理由で下に見て大声でバカにしたり、
自分とは考えの違う人たちの事を散々に悪く言ったり、人助けを「危ない事」と批判したり…
✳︎
まるでそんな親たちに反抗するかの様に、何かした後に慢心して、逆にやり過ぎてしまいます。
きょうも知り合いの坊さんに
「ロータスさん、五体投地(上礼)、あれ坊さんの作法だからやらないでっ!?1人がやると皆かえって戸惑うから!!」と言われて初めて気がつきました。中礼と上礼の違いがわかっていなかったという痛恨の凡ミスでした…。
✳︎
そんな感じで「おまいらが考えられない事考えられてる私偉すぎwww」という気持ちから、逆に色んな事が気になってしまっている状態です。
✳︎
それで逆に念仏も読経もできなくなる時があります。まずい状況だと思っています。
どうかお知恵をお貸しください。
よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無阿弥陀仏

「おまいらが考えられない事考えられてる私偉すぎwww」というロータスさんも、「マイノリティの人たちや見えない何かに怯えている人たち、特定業種の人たちを訳のわからない理由で下に見て大声でバカにしたり」するその人たちも、「一切衆生」として阿弥陀仏に救われるものです。

「私はいいけど、あの人たちは…」という在り方も、「あの人たちはいいけど私なんか…」という在り方もともに愚なのでしょう。阿弥陀仏の絶対的な救済のまえに私たちは愚を自覚するのでなく、「自覚させられる」のでしょうね。

だからこそ、その救済に甘えるのでなく、我が身を恥ずかしく思い、いよいよ我が身の在り方を深く問うていく「懺悔(さんげ)のこころ」も起るのでしょう。
「愚」はけして他に対して見出すものでなく、この私に見出される在り方なのでしょうね。

これからもともにお念仏の道を。

南無阿弥陀仏

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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質問者からのお礼

【吉武文法 先生】
 ご回答ありがとうございます。自覚させられるのが「愚」、その通りなのかなと思いました。恥ずかしいやら申し訳ないやらで念仏も読経もできなくなるのです。
 本山での説教会でも、念仏行の奥深さを思い知らされますし、仏典では「易行」などと説かれていたような気がしますが、煩悩にまみれた私たちにとっては時に難行にもなり得るのでしょうか…

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