hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お坊さんとの出会い方について

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

初めて投稿させていただきます。
yukkoと申します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

押しかけ問答あるのみ

まず、(^<^)月9のドラマ『5→9~私に恋した(イケメンすぎる)お坊さん~』を毎週、リアルタイムでTVの前で正座してワン・シーンたりとも見逃さずに脳裏に焼き付けることです。
そこで山Pをガン見しながら、妄想を大いに膨らましてください。
「私にも白馬の王子さま的なイケメン僧侶が打ちひしがれた雨の中、高級車でバラの花束を持って駆けつけてくれますように」と強く念じてください。(ドラマ参照)
そのまま、うちのお寺の毎週日曜の坐禅会に来て頂ければ、妄想「山P」僧侶と、現実の僧侶とはかくもかけ離れたものか!とギャップ、ガッカリ感で、世の無常を悟れます。憐れみを通り越して慈悲心すら沸くかもしれません。
そうした無常観、ガッカリ感の中で、傷をいやすべく、このhasunohaの「お坊さん」のページをそっと開いてください。全てが菩薩さまに観え、スマホ、PC、タブレット越しに手すら合わせたくなります。
そののち「この僧侶ならばとじこめられてもいい」(ドラマ参照)と思われる僧侶のお寺を検索、訪問して、ヒールが滑ったフリをして、石原さとみさんのように抱き着いてください。(ドラマ参照)
これで、かれらはイチコロです。
って、そっちの「出会い」ではなかったですね。
長い前フリでしたが、是非、ご検索頂いて、集いやイベントを開いているお寺に足を運んでみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ