どうすれば苦しくなくなるでしょうか
小さなことが気になります。他の人が何とも思わないことが気に触ります。でも他の人が何とも思っていないとわかっているので誰にも相談できません。自分の中にだけ、嫌なものがちくちくと溜まっていっています。
自分と違う人に自分と同じ普通を求めるのは傲慢だとわかっているのに、色々なことが許せません。人に「嫌だな」「変だな」と思った分だけ、自分の醜さが見えて、よりたくさん嫌なものが溜まっていっています。
ここ数日はひどくて、嫌なものが溜まるいっぽうで、毎晩毎朝息が苦しく胸が痛くなっています。
本当に苦しくて、誰かに聞いてもらった方がいいのかとも思うのですが、
自分が嫌に思っている物事ひとつひとつは本当に小さな物事なので、そんなことで悩む自分、そんなことで嫌に思う自分がどう思われるのか、またわかってもらえるのか、不安で苦しくなっています。
生きづらさを感じています。どうしたら苦しくなくなるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
芸術、芸術作品に比較はない。生きた事実任せに生きる。
川はそれぞれ川の形が違います。
秒単位、ミリ単位でいつも常に変化しています。
常に比較がなくて絶対なのです。比較があるということはアタマで他に何か「すでにないもの」を立てて物事を見ている。
アタマ(左脳)越しに物事を見るというのは「すでにないこと」を相手にしておられるのです。
比較なしに生きる。
あなたがモナリザならば自身のモナリザ性を貫くことです。比較は要らんのです。この世のすべては芸術品。この世のすべてが芸術作品。あなたの今日の発言も二度と取り返しのできない芸術発言。あなたの一呼吸も同じようで二度とない全宇宙でたった一回っきりの芸術的呼吸。
目がものをみる。
耳が音を聞く。
景色も音もそこで終わっている。
この体の上においてはその時かぎり、その場かぎり、そのこと限り。
「時ぎり 場ぎり それっきり」です。
これは【体感としてそうなっている】という事実に目を向けて、実際の上でそうなっていることを明らかにしてみてください。
「OH,確かに人生は本当に、その出来事はその時限りだ。」と悟ることで比較のない人生がGETできます。
ちょうど私の後ろで冷蔵庫がウィ~ンとしゃべりだしました。コオロギが庭で諸行無常の交響曲を奏でています。手元のサントリーのウーロン茶が限りなく「ぬるい」に近い「ぬる冷た」をキープしています。
「ちいさなこと」がさっきまでは気になっていたとしても、今はもう気になっていなくなっていませんか?気にすることは悪いことではありませんが、気にしたこと、気になったことを「気にして」いませんか?鍋が焦げたら焦げたことを数時間嘆くよりも数分間こすった方がきれいになるものです。
自分を変えたければ「とどまり」を無くすことです。
実際の事実は生きた芸術作品のようにどんどん変化しているのに、あなたが「思考」という評価でとどめてしまっているだけなのです。
Aダヴィンチは亡くなってます。
B作品は生き続けています。精神も生き続けています。
C作品への評価は人によって様々です。
D一方、同時進行で世界は回っています。
E「世界は回っている」とアタマで思いを巡らせたり、アタマ(左脳)越しでものを眺めると、あなたの体感世界が停滞します。
F本当に世界が変化していることを体感するには理屈や評価、比較、アタマ越しのものの観方をお構いなしにすればいいのです。
🌑🌒🌗🌙🌓🌔🌝
どう思われたっていいよ。。。。
ミジンコさんは、真面目で、誠実で、真っ直ぐに生きてお見えですね。
素晴らしいです。
溜めたものを全部 吐き出しましょうよ。
声が枯れるまで、叫んでみましょうよ。
涙が枯れるまで、泣きましょうよ。
立ち止まりましょうよ。
大丈夫ですよ。
貴女ならば、きっと 大丈夫です。
質問者からのお礼
ありがとうございました。お礼が遅くなってしまいました。
わかってはいたのですが、他者の目を気にして、人にものを言えず、誰にも理解されないまま自滅してしまいました。
その後人から勧められたクリニックでお話を聞いてもらって、自分の言葉を自分の耳で聞いて、自分の言葉に反応してもらって、やっと少しすっきりしたような気がしました。
自分を認めたかったし認めてもらいたかった、でも確かめるのが恐ろしくて動けないまま溜め込んでしまった、という感じがします。
他者を気にしないというのはまだ難しいのですが、変わろうと思わなければ変わらないのはよくわかりました。休みながらコントロールしていきたいと思います。