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どうすれば苦しくなくなるでしょうか

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有り難し有り難し 24

小さなことが気になります。他の人が何とも思わないことが気に触ります。でも他の人が何とも思っていないとわかっているので誰にも相談できません。自分の中にだけ、嫌なものがちくちくと溜まっていっています。
自分と違う人に自分と同じ普通を求めるのは傲慢だとわかっているのに、色々なことが許せません。人に「嫌だな」「変だな」と思った分だけ、自分の醜さが見えて、よりたくさん嫌なものが溜まっていっています。
ここ数日はひどくて、嫌なものが溜まるいっぽうで、毎晩毎朝息が苦しく胸が痛くなっています。
本当に苦しくて、誰かに聞いてもらった方がいいのかとも思うのですが、
自分が嫌に思っている物事ひとつひとつは本当に小さな物事なので、そんなことで悩む自分、そんなことで嫌に思う自分がどう思われるのか、またわかってもらえるのか、不安で苦しくなっています。
生きづらさを感じています。どうしたら苦しくなくなるでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

芸術、芸術作品に比較はない。生きた事実任せに生きる。

川はそれぞれ川の形が違います。
秒単位、ミリ単位でいつも常に変化しています。
常に比較がなくて絶対なのです。比較があるということはアタマで他に何か「すでにないもの」を立てて物事を見ている。
アタマ(左脳)越しに物事を見るというのは「すでにないこと」を相手にしておられるのです。
比較なしに生きる。
あなたがモナリザならば自身のモナリザ性を貫くことです。比較は要らんのです。この世のすべては芸術品。この世のすべてが芸術作品。あなたの今日の発言も二度と取り返しのできない芸術発言。あなたの一呼吸も同じようで二度とない全宇宙でたった一回っきりの芸術的呼吸。
目がものをみる。
耳が音を聞く。
景色も音もそこで終わっている。
この体の上においてはその時かぎり、その場かぎり、そのこと限り。
「時ぎり 場ぎり それっきり」です。
これは【体感としてそうなっている】という事実に目を向けて、実際の上でそうなっていることを明らかにしてみてください。
「OH,確かに人生は本当に、その出来事はその時限りだ。」と悟ることで比較のない人生がGETできます。
ちょうど私の後ろで冷蔵庫がウィ~ンとしゃべりだしました。コオロギが庭で諸行無常の交響曲を奏でています。手元のサントリーのウーロン茶が限りなく「ぬるい」に近い「ぬる冷た」をキープしています。
「ちいさなこと」がさっきまでは気になっていたとしても、今はもう気になっていなくなっていませんか?気にすることは悪いことではありませんが、気にしたこと、気になったことを「気にして」いませんか?鍋が焦げたら焦げたことを数時間嘆くよりも数分間こすった方がきれいになるものです。
自分を変えたければ「とどまり」を無くすことです。
実際の事実は生きた芸術作品のようにどんどん変化しているのに、あなたが「思考」という評価でとどめてしまっているだけなのです。
Aダヴィンチは亡くなってます。
B作品は生き続けています。精神も生き続けています。
C作品への評価は人によって様々です。
D一方、同時進行で世界は回っています。
E「世界は回っている」とアタマで思いを巡らせたり、アタマ(左脳)越しでものを眺めると、あなたの体感世界が停滞します。
F本当に世界が変化していることを体感するには理屈や評価、比較、アタマ越しのものの観方をお構いなしにすればいいのです。
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

どう思われたっていいよ。。。。

ミジンコさんは、真面目で、誠実で、真っ直ぐに生きてお見えですね。

素晴らしいです。

溜めたものを全部 吐き出しましょうよ。

声が枯れるまで、叫んでみましょうよ。

涙が枯れるまで、泣きましょうよ。

立ち止まりましょうよ。

大丈夫ですよ。

貴女ならば、きっと 大丈夫です。

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ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

質問者からのお礼

ありがとうございました。お礼が遅くなってしまいました。
わかってはいたのですが、他者の目を気にして、人にものを言えず、誰にも理解されないまま自滅してしまいました。
その後人から勧められたクリニックでお話を聞いてもらって、自分の言葉を自分の耳で聞いて、自分の言葉に反応してもらって、やっと少しすっきりしたような気がしました。
自分を認めたかったし認めてもらいたかった、でも確かめるのが恐ろしくて動けないまま溜め込んでしまった、という感じがします。

他者を気にしないというのはまだ難しいのですが、変わろうと思わなければ変わらないのはよくわかりました。休みながらコントロールしていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ