怖いことが多いです
度々お坊さん方にはお世話になっております。
ご質問なのですが、私には怖がることが多いです。怖がってしまう対象は、人や、会社や、学校、様々です。
例えば、今は、就職活動中ですので、この会社は自分が入って、いじめられないどろうかや、信用して本当に大丈夫か、進展はあるか、ブラックではないか、などです。
人でも、疑り深く、本当はこの人は私の事を嫌いではないだろうか、本当は影で悪口を言ってるのでは?などや、今言ったことに対し、嫌われなかっただろうか。などです。怖いというのは、相手を信用して裏切られたときに、傷付いたり、散々な目に会うのが怖いのです。会社選び、友達選び、恋人選び。なので、常に一人で生き、社会からぽつんと浮いてしまってる気がするのです。
人を疑り深い目で見ることは、大変失礼だと思います。ですが、20そこそこの経験が少ない大学生が、やれ恋人に裏切られ自殺だ、会社がブラックで働きすぎで過労死だ、などと、様々な問題があると言われると、警戒心が強くなり、こわがってしまうのです。そのため、結婚もしたくなければ、子供も欲しいとは思えないです。結婚すれば離婚のリスクがつきます。子供を授かれば、離婚をした時、自分が育てていかねばなりません。そうなると、私一人の収入では、どうしても子供に満足な生活をさせることは、このご時世厳しいです。
このように、様々なものを警戒して、行動まで中々踏み出せません。自分でも苦しくて、どうしようもなく沈んでしまいます。なにか、心持ちを変えられるようなことはないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慎重である事は悪くないけど、失敗挫折も人生の肥やし!
まるまるさま、初めまして。
お気持ちはよくわかります。
最近、私の子供が自動車運転免許を取得した事で、思い出したのですが、教習所や免許更新講習の際、よく「だろう運転」「かもしれない運転」についてのお話しを聞きます。
「まさかこんな所から人は飛び出してこないだろう」「ちょっとお酒を飲んでしまったけど、このくらいなら運転できるだろう」というように、「だろう、だろう」と思ってしてしまう運転が、一番危険な「だろう運転」
対して、「車が来ているかもしれない」「人が飛び出してくるかもしれない」と、常に用心して注意深いのが「かもしれない運転」
安全運転の前提は常に「かもしれない運転」であると、教えられます。
車の運転は、これが正解ですが、まるまるさんの人生の「かもしれない運転」志向はどうでしょう?
「かもしれない」で生きて行く人生は安心ができません。「今日死ぬかもしれない・・・、明日死ぬかもしれない・・・」と、びくびく、おどおどしながら生きていかざるをえない思いがしてきます。それは先行きの見えない大変不安な人生となるでしょう。
私たちの浄土真宗では「他力本願」を主とした教えです。これは一般慣用句の解釈のような「ひとまかせ、他人をあてにする」という意では無く、
「あなたのいのちは、すでに私が引き受けてあるのですよ。だからあなたは安心して、せっかくいただいているいのちを、いま・ここで、精いっぱい輝かせて生き抜きなさい。そして、やがてそのいのち尽きたならば、わたしと共に真実のさとりの世界へかえろう」
と、ご本尊阿弥陀如来さまが「南無阿弥陀仏」の言葉(名号)として私たちに至り届いているということが、阿弥陀仏(他力)の願い(本願)であるという意なのです。
固い事を述べましたが、せっかく、いのちある ますまる さんの人生、多少の失敗・挫折はつきもの。いただいたこの身・人生を、時には未知の世界にチャレンジしながら、歩んでみて下さい。
何処かで誰かが必ずあなたを見守り助力し、時には叱咤激励してくれます。この目に見える形・見えない形、様々な「他力」に目覚めることによって初めて、どんな境遇でも、生き抜く力が、私たちの中に与えられるのです。
「他力」に依って生かされ、お任せしている身を知り、感謝の内に歩んでこそ、人生の安全運転ができるのですよ。精いっぱい輝かせて生き抜いてください。
質問者からのお礼
ご解答をいただいてから、号泣しました。お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。いまでもみたたびに涙が出ます。ありがとうございました。