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北陸で1番大きい寺はどこですか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 19

北陸の天台宗のお寺で1番大きいお寺ってどこですか?
今度、北陸の方に行くのですがその時にお寺にも寄って行きたいのです。
1番大きいとかではなくてもすごい住職のお坊さんがいるとかでも教えて欲しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最初の設定が自分過ぎるかと(^◇^)

これは、別に悪く言うつもりじゃないんですが、ちょっと、先に聞いておいていただきたいことが…。

北陸の天台宗のお寺で1番大きいお寺ってどこですか?
今度、北陸の方に行くのですがその時にお寺にも寄って行きたいのです。
1番大きいとかではなくてもすごい住職のお坊さんがいるとかでも教えて欲しいです。

すでに自分の目的が限定されすぎていて、自分が思い描いた理想の「それっぽいもの」じゃないと「お宝感がない」みたいな求め方って、たぶんそこに行っても空振りします。自分をやってるだけだから。仏教って、そういう自分の事前設定や自分のマイストーリー、マイファンタジー、あらかじめの「こういうもんだろう」というものが全部自分が作っちゃったマイストーリーの独り歩きであることを知ることが、まず、最初に求める上において大事なことなんです。
(悟空調)うん。オラもでっけぇとことか有名なお寺とかパワースポットのお寺に行けばすんげぇ坊さんに会えて、すんげぇチカラが沸いてくんじゃねぇかって思ったんだけど、うん、オラ、スンゲー空ぶった。

ドラゴンボールではなく西遊記の「孫悟空」とは「自分が強い」心を象徴しています。
むさぼりのぶたさんと、怒りっぽいカッパ。お猿さんの孫悟空は、無明という人間の脳内ワールドの「思い描き」のシンボルです。

私自身、仏教を求めたときに、あらかじめの自分の妄想が強すぎて、浦東はそういうことじゃなかったんだ、ということがわかるまでずいぶん時間と骨を折りました。
ご理解いただけたと思うのですが、せっかくの向かう先に夢が膨らんでいるところ夢を壊すようで申しわけありませんが、人生にとって最高の智慧・力を授けてくれる仏教、仏の教え、覚者の教えを学びに行くのであれば、今、ここで、学ぶこともお勧めです。
すでに心が「アッチ」「向こうに」浮足立っていると、相手にするものが自分の脳内ファンタジーになってしまうからです。あなたは西遊記の三蔵法師。3匹の仲間をすでに連れています。
人生の天竺、最高の境地を目指すのであれば、まず己の猪八戒、沙悟浄、孫悟空の存在に気づいて彼らに目くらましをされていた自分から覚めて、かれら(貪瞋痴=よく・いかり・まよい)を飼いならすことで、行くところ、道中も、今立っているところも素晴らしい世界にチェンジ・ザ・ワールドします。
自分の心が変われば世界が変わる。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

目的が限定されすぎている
改めて考えると、確かに、その通りだと思いました。
冷静にならせてもらえる回答をありがとうございます。
質問を書いていた当初はこのような回答は求めていませんでしたが、今は逆にこのような回答を頂いて良かったと思っています。
本当にありがとうございます。

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