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職場

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初めまして。
ちょっとしたことですが、
質問させてください。

会社の飲み会で上司と2人きりで話をし、
途中周りに聞こえないくらいで話をしました。私が20代後半で1番下だからなのでしょうか?

最初はお互い離れて座り、
途中2人で話てました。内容は上司は野球好きらしく、野球すき?とか
でも集団で話てた時より、また違う一面がみれたような気がして緊張しました。

ちなみに上司は42歳、フランクな感じで勿論仕事中は真面目ですが、社内メールが私はもろビジネスメールなのに、上司は友達としてるような感じの返事がきます。電話取次は他の人の時ははい!と反応するのに、私の時はん?です。ちなみに役職者です。

好意はないですよね?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

好意はあるでしょう。

こんばんは。先日の質問でもありましたが、「気に入っている・いない」のどちら?と言えば前者でしょう。けれど、色恋云々とか恋愛とかのレベルか?と言えば、それは早トチリだと感じます。
実際これは、「あなたの文章を読んで、私がそういう行動をしたとしたら」という想像で書いていますので、心理学分析(多少なりとも客観性・再現性がある)でもなく、占いでもありません。つまり「分かりません」というのが本音です。
では、何故そんな事をワザワザ書くのか?「ご自身で学んでいくよりない」と言いたいのです。人とのコミュニケーションの取り方は、試行錯誤して調節していくもの。誤解や早トチリをしながら、「そうだったのー!」を繰り返していくもの。年下の女の子にフランクな感じでアプローチするのは、「嫌がられたくない」のだろうなー、ぐらいに想像しますが、もしかしたら「食事に誘いたい。デートしたい」と思っているかも知れません。
それを、第三者に聞いても仕方ない。それを言いたいのです。
あなたの妄想を膨らませることなく、赤の他人に聞くでもなく、言葉でコミュニケーションする。慣れてないなら不器用に、ストレートでもいいと思いますよ。背伸びせず、どんな経験も自分を磨く種になることだけは間違いないですから。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

公私混同は許される範囲まで

まず、公私混同しない。
これにつきます。
お酒の席での会話をきっかけにフリン道に走ってしまうことはよくありますので、二人っきりとか、一線を超えないようにご注意を。
このサイトでも上司に遊ばれた系の悩み相談もありますので、口のうまい人にはご注意を。
その人が独身であなたもその上司に行為があるなら話は別ですが。
変に相手に期待させると、それはそれで変な職ハラに巻き込まれてもいけませんので、男性はカン違いしやすいので好意をあまり露骨に見せると、勘違いして一線を越えてこようとする人がいますのでご用心です。
予防線として、詐欺師には詐欺師よりも上手の詐欺で立ち向かうという姿勢を覚えておきましょう。
あくまで上司と社員。
それ以上のことを要求されたり、身の危険を感じたら超マッハでダッシュあるのみです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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