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迷っております

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先日、改宗の件で質問させていただきました。回答頂いた住職様に感謝いたします。
真宗から浄土宗へ改宗します。

家の近くに2件あるお寺を選べずに迷ってます。

料金等も快く教えて頂きました。
どちらも同等でした。

歴史が古いお寺が良いのか、檀家さんが多いお寺が良いのか。なるべくお金をかけないやり方をすすめてくれた住職さんが良いのか...

直接お会いしてお話ししたいのですが、天秤にかけているようで、気持的に落ち込んでおりますT_T
父の為早く決めなきゃいけないのですがT_T
アドバイスありましたらお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どちらのお寺も本堂の本尊様を訪ねてみては…?

両方のお寺のご住職にお会いしてからだと天秤にかけるような気がするとの事ですが…。

でしたら、特段ご住職に面会をする事も無くお寺の雰囲気を知る方法があります。

お寺に行き、

「近くに住んでいるものですが、このお寺の本堂に祀られている阿弥陀さまを本堂の中で少しだけ拝ませて頂きたいのですが、お願いできますでしょうか?」

とお寺に入って対応に出て来られたどなたでも良いので聞いてみて下さい。

お寺の家族や使用人は、ご住職の指導の元に動いています。(もし、ご住職の意志が反影されていないお寺であれば、それはそれで問題があると思います)
ですから、本堂の御本尊様を拝みたいと言う人に対する 応対の態度や振る舞いを良く見て下さい。
そして本堂に通して頂いたら、御本尊様の前で合掌し祈って下さい。
檀家になると言う事は、そのお寺の御本尊様にこれからずっとお世話になると言う事です。
本尊様の前で祈った時の貴女の気持ちを良くおぼえておいて、深くお礼を申してお寺を出て下さい。その時に特に御布施等は不要に思います。賽銭箱があれば気持ちの分をお入れください。

そのように両方のお寺を訪ねてみて、ご自分が気持が落ち着いた方になさってはいかがでしょうか?

追記:ご住職様は代替わりすることがあります。ご家族やお寺全体の雰囲気が何より大事であると思います。それとて代が替わると変わる可能性もありますが、ご家族の雰囲気が良ければそこで育った跡継ぎさんも安心だと思います。檀家になるというのは、あなたのお子さんや孫の世代まで関わる事ですから…。住職様が変わる度に宗旨替えも難しいと思います。

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

医者も僧侶も選ぶ時代

今後、直接かかわっていくのは、あなたとそのお寺のご住職さんでしょうから、付き合いやすい方、気さくな方、何でも話せそうな方を選んだ方が良いと思います。(T_T) 

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

悟東 あすか 様

丁寧なアドバイスありがとうございます。
本堂も重要なところですね。住職様が対応してくれると良いのですが....
やはり住職様がどんな方かが気になります。

安穏寺 (天岑寺)
丹下 覚元(たんげ かくげん)様

医者も僧侶も選ぶ時代....
気持ちがすっとしました。選んで良いんですね。
なんでも話せる住職様が側にいてくれる事を理想としています。
お会いする決心がつきました。その際「お礼」は必要ですか?

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