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分かっているが辛い。

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

これまで色々とありました。僕のこれまでの質問を見ていただければありがたいです(病院と意見が というのと 最善の選択 と 最近本質が という質問を見ていただければ大体今までの事を見ていただけると思います)。過呼吸になってしまい、入院をしたり、色々ありました。
常に努力を尽くしてきました。そして常に自分が正しいと思ったことをやってきたつもりです。
今は高校(全日です)将来のプログラマーという夢のため学業とプログラミングの勉強に励んでいます。
ですが、今学校には別室に毎日登校しているのですが、1日に会う人は家族を除いたら、学校の先生2人ほどと別室に来ている相談支援の方1-2人です(同じ部屋に来ている生徒はいますが話しません、話せる雰囲気の人ではありません)なのですが、休み時間で同じクラスの人や街中で同じくらいの中学生をみると本当に辛いです。自分がしっかりとずっとクラスに入っていれば、みんなとワイワイ楽しくしていたのに、、今そう考えても仕方ありません。だって今クラスに入れなかった自分はこの運命だったことによって本当に本当に色々学んだことがありました。周りの人たちの支え、毎日辛いですが、本当に多くのことを学び 成長したと思います。そして過呼吸になってクラスに入れないということが無かったら、僕は大好きなAppleとも出会わなかったかもしれない、いや出会わなかったと思います。
だからこの運命に本当に感謝をしています。
ですが本当に辛いのです。毎日クラスに入っている人は友達と遊んだり、部活をしたり楽しそうです。その中1日24時間常に次のステップに進むには、どのような選択肢が適しているか。そしてやる事が決まったら、(例えばテストで100点だったら1日中やりまくる)
そして高得点を取って嬉しいのですが、みんな楽しんでいる中、事務的作業を3年間やっている感じがして、本当に辛いです。高校に入ったら友達を作り楽しもうと思います。だからそのために今は試験への勉強を頑張っていますが、でも高校では絶対に成功してやるぞ!(いまが成功していないわけではありませんが)毎日エンジョイするぞ!と思っていますがそれも順調にいくか内心不安です。
その他にも色々あります
本当に寂しいし辛いです。本当はこんな弱音は吐きたくないです。
でも辛いです。ここで話させてください。すみません。
何かお言葉を頂けたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

点取り虫に陥らない

宗教心のない教育は賢い悪魔を作るものです。
今やっていることがそれによって何に役立たれるかを真剣に考えて進むべき方向性を軌道修正いたしましょう。
確かに高得点を取ることは大事でしょう。
それをモチベーションにするのもよいでしょうが、自分のスキルを使って何をやりたいかがもっともっと大事なことです。
「わーい。ぼくちゃん、原子力作っちゃったぞー。すごーい。」
「さっそく平和利用を。発電所をつくりましょう。」
「よし、作ろう。」
「儲かりまっせ。」
「???」
「別に儲かるために作ったわけじゃないけど…???」
隠して、原子力で兵器が作られ自分たちの首を絞める結果に…。
なんてことのないように、技術の身ではなく、動機、目的、方向性を人間性を高めつつ、人として優しい心を軸に進めていってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに最近は〇〇のためにこうしようではなくて、ただ単にこうしよう と考えていたことが多かったかもしれません。
「今やっていることがそれによって何に役立たれるか」 というのを考えてみようと思います。
ありがとうございます。

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