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仏像の開眼について

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仏像の開眼について2つご質問させてください。

仏壇のご本尊とは別に、旅先でも拝めるように、携帯用の香合仏の阿弥陀様を頂きました。
そこでご質問なのですが、やはり仏像は開眼をしなければ、部屋のインテリアや玩具のフィギュア同様、ただの人形なのでしょうか?

もう一つは仏壇のご本尊なのですが、私の檀家のお寺は遠方にあり、しかも年末年始のお寺様も忙しい時期にしか帰省出来ません。
それでやむなく、東京の同じ宗派のお寺様で開眼していただきました。
(開眼が必須でしたら、こちらのお寺にまたお願いしようと思います)。

ですが将来、新しく脇侍の仏様も入れたく、いずれ機会がありましたら、実家の檀家のお寺様で開眼したいと思うのですが、ご本尊は既に東京のお寺で開眼済みです。

この場合、ご本尊様と脇侍様を一緒に開眼すれば、ご本尊様を2回開眼することになりますが、問題は無いでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真の開眼は自己の菩提心なり

仏像といっても最近はフィギュア、3Dプリンターで作られた安価なものもあります。
仏像のコレクターとなると趣旨が変わってきてしまうものです。
本当の仏像の開眼とは、一家の精神的な導きとしてのご本尊をまつり、生涯かけて敬うということです。
元々何でもなかった木仏石仏を「こころあるものとして」タマシイ入れをする、開眼供養をするということとして伝わっていますが、一番大切なのはただ開眼供養をすればよいということではありません。
①それを通して自分自身が悟りを求める菩提心を持つということであり、また、
②自分自身の心のあり様に目を向ける=自身の心象作用に眼が開く(坐禅や瞑想によりこれは可能)、
③法眼が開かれるということ。人間の世界の世俗の感情感覚ではなく、仏教の説くところの「仏法」に目が開くことです。
そうすることであなた自身が仏の教えを求める眼が開かれる。
仏眼、法眼、正法眼。
そういう開眼でなかったのであれば、本当の意味において開眼にならんと思います。
開眼は菩提心の入魂でもあります。
何度やってもかまいません。
同じ大学に通うにしても二度目に入学するときは学びの場も環境も変わっているものです。
④そこに菩提心の誓願、衆生を利益し、煩悩苦悩を断ち切り、仏法を学び、仏道を成し遂げんという誓願もまた、開眼の中心でしょう。
そういう意義のある開眼をあなた自身がしなかったら、仏教も仏像も世直しも平和づくりもあなたの人間性の向上も人任せで終わるでしょう。良い開眼がなされますよう。

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丹下様の言われる通りですが、浄土宗的な補足を。
確かに浄土宗には開眼などの儀式があります。
しかし大切なことは、極楽浄土に往生しますようにと願って、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることです。
開眼に拘る必要は無いのです。
私としては、開眼という伝統の儀式をすることによって、仏像に向かって念仏をより心を込めて唱えることができる、という効果を期待して実施しています。
仏壇があるのも念仏を唱えるため。
仏像があるのも念仏を唱えるため。
お寺があるのも念仏を唱えるため。
そのことを忘れないようにして、日頃から念仏を唱えてくださいね。
その声を聞いて、阿弥陀仏はあなたの命が尽きようとする瞬間に迎えに来て、極楽浄土に連れて行ってくれるのですからね。
南無阿弥陀仏

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

丹下覚元(たんげかくげん)様
懇切丁寧なご説明、ありがとうございました。
これまで私は、開眼は漠然と「魂入れ」とだけ考えておりまして、その本当の意味するところは知りませんでした。
非常に勉強になりました(私は開眼の意味を微妙に誤解していたことも理解できました)。
ご教示いただいたことを念頭において、今後の仏教の実践を心がけたいと思います。

三宅 聖章 様
浄土宗からのアドバイス、ありがとうございます。
確かに私は、形式にこだわっていたようにも思います。
浄土の教えは、やはりお念仏が主役なわけでなんですね。ご教示の通り、今後もしっかりやってゆきたいと思います。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ