hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

親の信頼をなくしました

回答数回答 1
有り難し有り難し 21

わたしは高校三年生の頃、塾に通っていました。
当時、お付き合いをしていた方とたまたま同じ塾でした。
塾にいろんな学生さんがおり、苦手な方もいました。受験間近になると空気も悪くなり、陰口なども増えわたしは行きづらくなりました。

12月に入る頃には、塾に行くのが苦痛になっており、でも勉強しなくてはいけないという気持ちから、お母さんに「塾に行ってくるね」と言い、そのまま違うところで勉強をしていました。
1月に、塾から家へ電話がいき、嘘をついていることがバレてしまいました。
お母さんは、子供には家にいてほしいと思う人だったので、塾が嫌だから外で勉強するねと言ったら怒られると思いついてしまった嘘でした。
お付き合いしていた方はとても頭が良かったので、塾では話したりできない分、外で勉強を教えてもらうこともありました。

結局お母さんにバレた日から外に出られなくなり、常に家にいる状態で、それが原因ではありませんが第一志望に落ちてしまいました。

その日から、ことあるごとに「お前は嘘つきだ。嘘ついて彼氏と遊んでたから受験に落ちたんだ。大学名が友達に言えなくて恥ずかしい思いをしてるのはこっちなんだ」と怒られるようになりました。

私は嘘をつきたくてついたんじゃないんです。理由を話しても、嘘をついたことが許せなかったみたいでずっと怒られてました。怒られるのが嫌で嘘をついてしまったんです。
嘘をついたことに変わりはないので、信頼を取り戻せるように家事を手伝ったり友達ともあまり遊ばず家にいるようにしています。でも、今でも機嫌が悪いと怒られてしまいます。

私の罪が許される時はないのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そもそもが罪なんてないでしょうに。

親の顔色を窺って、親の期待通りに生きることは親のご機嫌が取れるというだけで間違った生き方です。そういうことをずっと続けていこうとする親も間違っています。
学校をランクで小ばかにすることは学歴に低い人を見下した、学歴だけで人間を判断する、ある種の差別です。
この世はいい学校に行った人が偉いなら国の政治家さんやいわゆる立場のオエライサンはいい学校をだた人ばっかりです。
ところが、今の日本は誰が見たってどうしようもない世の中でそういう世の中をつくている政治家さんたちはみんないいトコロの大学を出ているのですから結局勉強ができるだけのおバカばっかなのですから、結果的にいいところの大学に入らなくてよかったのです。
学校や学歴よりも賢い生き方をすることです。
人生はいい大学出て暗い生き方をするよりは丹下のようにバカだ高校アホだ大学を出ても笑って暮らすことです。
あなたはあなたの頭、脳ミソを最高のものにすればいいのです。
仏教とはそれぞれ各自の脳みそを各自の人生史上、最高のものにする教えです。
しっかり、今後も学びを続けてください。
結論:罪はない。
あなたが親の呪縛から解かれて、家のルールに縛られないことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ