hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

死後、先に逝った方と再会できるのでしょうか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 25

以前、猫を虐待して殺してしまい、どのように自分に罰を与えるべきかと相談させていただいた者です。

その後も毎日、私が殺した猫達を思い出し、罪悪感に押し潰されそうになるとともに、回答していただいたお坊様のお言葉を胸に、反省し、少しずつですが罪ほろぼしをしていました。

自殺も考えたこともありますが、死んで楽になるのはズルいとか、自殺は私が手にかけた猫達に対する冒涜になると、苦しくとも生きようと思っていました。

昨年のことになりますが、健康診断で癌が見つかりました。

自分への罰で悩んでいたところ、天から下された罰ですので、治療することなく、猫達が味わった苦しみを少しでも感じながら死を迎えようと思っています。
進行具合から死はまだまだ先でしょうが、最近は澄みきった気持ちで、身の回りの整理を行っているところです。

ところが、どうしても気になり出したのが、死後、私が殺した猫達に会えるのかということです。

私は当然に地獄に行くのでしょうが、そのような者が天国にいる猫達に一目だけでも会えるのでしょうか?
また、会うことが可能だったとして猫達は自分を殺した私に会ってくれるのでしょうか?
会えない場合、何とかしてメッセージを伝えることはできるのでしょうか?

何とかして直接謝りたいのです。

何度も繰り返された質問でしょうが、どうしても気になり質問させていただきました。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩薩の修行をする

自身が成仏させるべきこころは自身のうちにあり。
ネコを殺した。
悪いと思う。
苦しむ心は汝が胸にあり。
そこがネコ殺し地獄の場となって地獄の業火による苦しみを味わい続ける。
そこが救済を求める地獄であり、そこに救うべき衆生があらわれる。
ゆえにその地獄の衆生たちを救い上げる為にこそ、菩提心をおこし、生きて猫たちの精霊(汝がうちにあり)を供養せんと発願し、仏道に精進し仏法をまなぶ中で菩薩の行を修するのである。
「仏祖憐みのあまり広大の慈悲門を開きおけり。
これ一切衆生をして苦を除き、安楽の法門へと導かんがためなり。」
懺悔の門を唱え、己の我見・妄執を離れ正覚を求める。
真に懺悔するというは謝ればよいということばかりではない。
自身が改められゆくことである。
一、十、百の大罪あらば、かりにそれを償うことができずとしても、菩提心百千万ふるい起こして、世の一切衆生を先に助け救わんと発願し、菩薩の行を報恩行、懺悔の行として行う。
菩薩の行とは具体的には布施、愛語愛行、利他利人の行、自他不二の行、この菩薩の精神を常に忘れず日々の中で行いて、広く衆生の為に尽くさんと誓願を深めゆくのみ。
ネコを導きの師となし、自らを菩薩の道、仏道に導きたもうた存在として敬い、自らの我見、邪心、良からぬ人間性を改めゆくことを日々おこたらざらんと誓い、何をするにも「わたくしに費やさざらん」と行うところ、いつかあなたの中で猫がゆるしてくれるような感覚を得ることができると思います。
その為にやるのではなく、ただ仏法のために。
ただ人が救われることのために。
今日できる救いの行は今日救う。
体が動くのであればできないということはない。
自分の我見が先立つから人間は、わが身可愛がりのわが身我が都合の為にエゴの行を修するのである。
人間には染みついた業というものがあります。
ここでいう業とは習慣性や過去からの原因によって自身に培われた良からぬアラワレ。
これを改めゆく為にも自身の行いのありようを改めゆくことです。
かの宮本武蔵も人殺しの罪の意識に苛まれて晩年は供養の心を行じたといいます。
自身が殺めた存在は自身が向き合えるようになるまで懺悔して懺悔の菩薩行を積み重ねていくことよりほかに私は救われは無いと思います。
人はともかく。自らが自らの得心のいくまで、菩薩の行を行なっていってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

拝読させて頂きました。
あなたがそうお考えならば真心を尽くして猫達が仏様の元に導かれてますようにと仏様にお願いなさりお念仏おとなえなさって下さい。合わせてあなた自身もその人生を全うなさった時には仏様に導かれて仏様の元に生まれて猫達に巡り会えますようにと心から仏様にお願いなさりお念仏おとなえなさって下さいね。

南無阿弥陀仏

必ずやあなたは仏様に導かれて猫達に巡り会うことができるでしょう、そしてあなたは猫達に心からお向き合いなさり、共に安らかにご成仏なさることでしょうからね。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ありがたいお言葉ありがとうございます。
また、せっかくお答え頂いたにも関わらず返事が遅くなり申し訳ありません。

私は、死ぬまで心身ともに苦しみ続けなければならないと思い、生きてきました。
しかし、弱く浅ましい心は無くならず、どこかで救いを求めてしまうのです。楽になりたがっているのです。
本来であれば、気になることがあろうと、悩み迷いの中逝けばよいだけなのですが、質問させていただいたのは、やはり救いを求めていたからなのだと思います。

ありがとうございます。
本当に救われました。
会えるよう日々努力します。
そして、猫達に謝ってきます。

煩悩スッキリコラムまとめ