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亡くなった人の夢をよく見ます。大丈夫でしょうか?

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以下、2つの質問をさせていただきます。

3年ほど前亡くなったA君の夢を昨夜また見ました。

「おまえ、あの世で元気にしてるか?なんだ、少し若くなったじゃないか!」私のそんな

声かけに、A君はただ黙って微笑んでいるだけ。そんな夢です。

A君の夢はこれで3~4回目。

若いころからの友達だったのですが、10年ほどまえ些細なことで喧嘩して以来疎遠に。

そんな矢先に彼は亡くなりました。

葬儀にも墓参にも行っていません。

彼のことを思い出したりしたすることなど、ここしばらくまったくなかったのに、そんな

夢をひょっこり見るのは、私の潜在意識のせいでしょうか?

質問①『一度墓参にでも行ったがいいのか? それとも行かない方がいいのでしょうか?』

もとより、私は亡くなった人の夢をよく見ます。

近所の亡くなったお爺さんやお婆さんなど、ことごとく夢に見ます。

「あれ、○○さん亡くなったんじゃなかったっけ?」

「ああ、私は死にましたけどね、今から宝探しに行くんですよ!」

と、笑顔でいそいそと出かけるお婆さん。

またある時は「あれ、○○さんこんなところに立っていないで、ちゃんと墓に戻らないと」

と言いながら、おじいさんの硬く冷たい腕を持って墓に連れ戻そうとする。

そんな夢などよく見ます。

気持ち悪いとか怖いとかいう印象はなく、ほとんどがほのぼのとした夢。

質問②『亡くなった人の夢を見ることは、心配ないのでしょうか?』


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ただの夢。大丈夫です。

夢にどんな意味があるのか、考えても仕方がないでしょう。
単に脳がデータ整理をしているだけかもしれませんしね。
夢に出てきた人のお墓参りは、どっちでもいいです。せっかくの機会なので行くのもいいかも。
夢に亡くなった人が出てきたからといって、良くも悪くもありません。
夢を特別視しないでください。
特別な夢を見た自分自身も特別視しないでください。
プライドの煩悩は悩み苦しみの原因になります。
もし、夢を理由に変なプライドをくすぐられると、良くないかもしれません。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

夢は夢です

人間の頭は、実際に映っていないものを頭の中でだけ映し出す力があります。
それは第三者には見えないはずでしょう。
ですから、それはあなたの頭の中だけの、あなたの頭の中では、のお話ですから、安心してください。
あなたは生きている人です。
生きている世界は、目の前で動いているこの世界です。
そうでない世界は、アタマの中の記憶や想像の世界です。
しっかりとこの現実の方を❝軸❞にして、地に足をつけて生きていきましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

「ただの夢」「夢は夢」安心しました。
亡くなった人の夢ばかり見るものですから、ちょっと心配していたところでした。
ありがとうございます。

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