hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

姉への怒り

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

こんにちは、私は20歳の大学生です。
私の悩みというのは、22歳になる姉との関係のことです。
私は幼い頃姉から虐待を受けていました。
姉は朝早くに起き、私をベッドから引きずり下ろし階段を引きずって早起きのお供みたいなことをさせました。
それは、何週間かした頃朝の物音に気づいた祖母から助けられましたが、姉がイライラするときは殴られ蹴られ、口答えをすると布団を顔にかぶせられ息ができなくなるまで押さえつけられました。
両親もそのことを知っています。
極め付けは私のベッドの上で私が言うことを聞かないからだ、と包丁を持ち出して自殺しようとしました。
私はその時、必死になって止めましたが今になってみればあの時ほたっておけばよかったと後悔しています。
そして、今現在姉は無駄に優しくなり幼い頃のことがなかったかのように私に服を買ったり、プレゼントをしたりしてきます。
謝罪はありません。
私はそれが腹立たしくて仕方ありません。
昔のことを忘れている姉の姿にイライラします。しかし、両親は仲良くなった私たちを見て、心から安心しているようです。
その様子を見て、きっと私が昔のことを忘れれば全ては上手くいく、と思うのです。
でも私は姉のことがどうしても許せません。
このような考えの私は心が狭く嫌な人間なのでしょうか。
忘れなければいけないのでしょうか。
どうにかして姉に復讐することはできないのでしょうか。
とても悩んでいます。助けて下さい。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

兄弟姉妹には優劣や勝ち負けはない。

まぁ、アナ。それほどまでにエルサのことが…。
とりあえず自暴自棄になってノースマウンテンに引きこもるかありのままの~♪姿を見せるまでそっとしておきましょう。
アナ雪ネタはさておき、姉というものは妹に対して基本的に上から目線で尊大です。姉の甘えというものもあるということを知っておくことです。小さい頃は寂しかった、自分を立てて欲しい、妹が生まれることで母親の愛情が半減、持ってかれた感がある、自分が優先されていたいという心情が先に生まれた存在として、生命として、生物のサガとしてあると知っておきましょう。同時に妹の立場にも同じように、上に姉、兄がいることでそういう扱いを受けて、そういう心情になり「やすい」ということもあると客観視しましょう。
それとは別に、あなたはあなた。
兄弟姉妹とは言え、あなたはあなた。
思ったことはお酒の席などで思い切ってぶっちゃけてみてはいかがでしょうか。
兄弟姉妹というのはよほどのことが無ければ真の殺意にはならないものです。
それよりも何よりもまず「わかってほしい」ことがお互いにあるというだけではないでしょうか。
そこを話し合ってこそ、真の兄弟になるのではないでしょうか。
私情、感情、立場を抜きにした互いの尊重があることで兄弟は強いきずな、結束が生まれます。兄弟姉妹には優劣はありません。
どちらかが何かの能力に優れていたとしても、他の面においてどちらかの方が繊細であったりします。世間で優劣が競われないレベルや分野でお互いに素晴らしい能力を持っているものです。
そういうところを互いに尊重しあって、妹、弟の立場はあえて立ててあげるくらいでちょうどいいバランスが保てるのです。
優劣勝敗の意識を捨てて接してみてください。同じ「血」が流れているのです。
悪意や悪く思うことよりもあなたがあなたの個人として「善意」で受け止めることです。そうすればどんな非が相手にあっても、それすらも「わたくし」なしに冷静にみられるようになるはずです。
あなたはあなたでお姉さんに対して、冷静に落ち着いて「こうしてほしい」と思うことをきちんと穏やかに伝えるべきです。兄弟姉妹に勝ち負けはありません。おたがいそれぞれが個別の存在なのです。尊重しあってこそいい会話ができるものです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ