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お墓と納骨について

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有り難し有り難し 5

初めて質問させていただきます。
実家のお墓のことで相談させてください。よろしくお願いいたします。

実家のお墓をまもってきたのは亡き祖父です。今は長男である父がお墓をまもっております。もし父に何かあった時は兄が、次は兄の長男が…と継承されていくものと思っておりました。

でも、11月の半ばに兄の長男が自殺しました。

兄夫婦の子供は三男一女でしたが、離婚し義姉と姪は出て行きました。
兄は不倫相手の女性と一緒に住んでいるため、ほとんど家に帰ってきません。
実質、兄の家には甥の2人が住んでいる状態で、甥の1人は遠方に永住するつもりで就職し、もう1人も就職ですがこの先自分の父と内縁の女性とのことを見たくないと寮生活を考えていたようです。

そんな中仏壇もないし見る人もいない、孫の1人が自宅に残って位牌の世話をするのも忍びなく思ったのか、父は、位牌はうちの仏壇にと言い出しましたが、拒否されたようです。

また、しばらくして父に自殺した甥をお墓に入れるのはどうかと言われ、納骨前に兄と話をするから、私の意見を聞きたいと言われました。

私は自分の不甲斐なさ、今までのこと、いろいろ考えたら怒りが増すばかりで鎮まりません。
きっと父も、ただ同調して欲しくて話すだけかも知れないけれど、怒りに固執している私が話してもまともに受け答えができなそうです。
自分自身も含めて方向性をつけるために、お墓が同じで位牌の置く場所が別でいいのか、お墓をまもっている人が拒否したら納骨できないのか、その時は四十九日の法要はどうなるのか、分からないことだらけなので、教えていただきたいです。

年の瀬にはいりお忙しいとは思いますが、どうか回答をお願い申し上げます。

自殺した人は死んでからも苦しむと聞きました。今は甥っ子に、ちゃんと修行して釈迦如来様に自殺してしまったことをちゃんと謝って、苦しまない方へ連れて行ってもらえるように頑張りなさいとお線香をあげて手を合わせるばかりです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自殺しようが何だろうが実家の墓に入れてあげるべき

死んでからも差別されるなんてかわいそうです。
先祖のある墓に一族として祀ってあげるべきです。
仏の前では家柄やら自殺したからなんだとかは関係ありません。
あなたは家族、親族故に自分ルールや高い理想を相手に押し付けないことです。
何故ならこう言っちゃなんですが、あなたの毒抜き、ガス抜きの為に云うのですが、
「高くないんですから、相手の人格が。」
でしょう?立派な人格者だったら、あなたは怒ってない。そうでしょう。
そういう人に高い人格を求めて、実際にそうじゃないから、ギャップでイライラするのは損です。
わたしは、身内でわがままな人がいたり、理不尽な人がいたとしても、それはその人本人の選択した生き方だから干渉しません。
為すべき義務を放棄して、誰かに押し付けるというものでもないでしょう。
家族親族の肩書きを全部一旦忘れてみてください。
人として誠実な行動をしてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
ご回答いただき、本当にありがとうございます。
はっきりと言っていただいので、自分の思い通りにならないことにイラついていたのかと反省しました。家族身内としてではなく、人として考えていこうと思います。
ありがとうございました。

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