お墓について回答受付中
私の父についての墓じまいについて考えているのですが、遺骨に魂は宿らないと聞きました。
私の両親は離婚しており、交流も長らくしていませんでした。
母は、義理でお墓を建てましたが、納骨の際に開眼供養もしていなくて、遺骨を納めただけの状態です。
遺骨に魂が宿らないのであれば、お参りも墓じまいも必要ないですか?
お坊さんからの回答 3件
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墓じまい という言葉の意味ってむずかしいですよね。
シンプルにいえば、
お参りも墓じまいも、まりさんがしたいと思えばしたら宜しいですし、したくないと感じるのであれば、しなくて宜しいのです。
そして、もしまりさんが、お参りや供養を
「この人にはしたくない! or する必要ないかな、、、?」
と感じるのであれば、かならず、それには理由があるはずです(仏教では物事をすべてに原因があって結果があると考えます)
つまり
お参りや墓じまいを必要か不要か?
と考えることよりも
どうして自分はそのような感情になるんだろう?
と思いを馳せることができると、おのずと答えは見つかっていくのかも?👍
と私は思ったりしました ^^)
必要かどうかよりもしたいかどうかを考えてみては?
ご相談拝読しました。
いわゆる墓じまいと言いましても実際には改葬(お骨のお引っ越し)であって、お骨をどこかしらに納める必要があります。現在のお墓の管理費等の維持条件がどうなっているのかを確認し、それによって物理的な面で改葬の必要の有無がまずは判断できると思います。
お参りについては信仰によるでしょうが、それはこちらでは判断できかねる面が大きいです。あなたのお父様であり、あなたがお参りしたいかどうか、そこが一番大切だからです。お参りしたい気持ちは全くないけれど、お骨に魂が宿るから鎮魂の必要があるのでは?と心配されているのでしたら、それはあなたがどこかしらで身につけた信仰ですから、その気持ちがある以上はお参りをしておいたほうが良いかとも思います。あなたに何か悪いことが起きたときに(実際にはそんなことはないのに)お父様のせい(=お墓参りをしていない報い)に感じてしまうことを避けるためです。
お墓参りというのは亡き人との対話です。それは実際には自分自身との会話ですが、亡き人の存在がなかったら生まれてこないであろう自分との深い対話ができる。今ここにあなたがいるということはお父様との御縁のお陰様でもあるのですから今はそうでなくとも、手を合わせたいと思う瞬間も訪れるのではないでしょうか。
お墓に亡き人がいるわけではない。お骨に魂が宿るわけでもない。それでも手を合わせたい人たちにとっての、亡き人の象徴的居場所がお骨が埋葬されたお墓なのだと思います。
目に見える形にとらわれて生きるのが生きている人間。亡き人はもうそうしたとらわれを離れているのでしょうが、それではどこで手を合わせたらいいか分らないのが私たち生きている人間ですから、やはり象徴的な場所が必要なのだと思います。
亡き人を思い出し拝むための媒体
遺骨も墓標も位牌も卒塔婆も遺影も、亡き人を思い出して拝むための媒体だと思います。
感情移入しやすさで言うと、遺骨はやはり特別な感じがしますね。
お釈迦様は、仏や偉大な王様などの遺骨を納めた卒塔婆(ストゥーパ)という塔を拝めば、拝む人の心が清らかになると説かれました。
私は、その真意は、道徳的に立派な人の人格を思い出しで拝み、偉大な人を見習う気持ちになれば、私達の心に良い影響(功徳、悟りやすくなる)が発生するということではないかと思います。
遺骨や墓石などの物体そのものは重要ではなく、見習うべき偉大な人のことを思い出すことが尊いのです。
ただし、日本仏教では誰でもいつか仏様(見習うべき人格完成者)になれると考えるので、生前に悪人罪人だったとしても、亡くなった仏様の仲間と思って拝むのだと思います。
質問者からのお礼
亡き人とは、私の目には見えない存在であるため、どうすればよいか迷いが多かったのですが、お坊様のお答えにより、少しだけ心の曇りが晴れたような気がします。
ありがたい教えを説いていただきました。ありがとうございます。