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深酒をすると暴れたり、手が出やすくなる

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お酒が好きで、バンドマンという職業柄、よくたくさん飲んで泥酔するのですが、それはそれで好きで、やめられそうにありません。

記憶を失うほど飲んだ時(もちろんこれは危ないのですが、過去の経験上急性アルコール中毒になるほどの飲み方をしたことはないです。)に、仲の良い友達にじゃれあいのつもりで手が出たり(気の許せる女性の友人にも)、熱い友情を感じた男友達と逆に殴り合いを申し出たりすることがあるらしいのです。

普段、暴力なんて絶対したくもないですし、する気もないのですが、
そういうことが度々あるようで、幸い、悪意がないじゃれあいであることがわかってもらえているので周りや被害を被った友達も毎回笑い話にしてくれるのですが、、、、、

それがエスカレートしたときに、音楽でライバルのような親友のような存在と喧嘩をしたことがあって、それを止めにはいった後輩たちにも牙をむいてしまい、結果返り討ちにあって(その後輩たちはとても良い子だちで)、次の日気がついたら顔がパンパンでした。

人が憎くて喧嘩するわけではないようなのですが、
感情が高ぶるのを、酔っ払った時には抑えづらくなっているのと、
なまじ少し人より力が強いので、じゃれあいたいだけのつもりが、
手を強く握ったり、腹にパンチをしてみたり(これが男の友達だけなら、まあ、仲の良いうちで終わるのですが)それを女性にはしたくないのです。

しかしお酒をやめたくもない。もちろん謹慎する気持ちはありますが、謹慎しても、一生飲まないのでない限り、根本解決ではない気がするのです。

自分の力の強さや、これくらいの力で殴られたらこんなに痛いんだってことを知らないから、そういうことができてしまうのだとしたら、格闘技をやってみるといいのかな、なんて考えたりもするのですが、どうなんでしょうか。何かご助言がいただけるようでしたら、どうぞよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ハッキリ言うべきでしょうね

渋谷のくずっくすさんはいくつか盛大に勘違いしていらっしゃいます。
まず、お酒は『惑うもの』です。格闘技をして殴られる痛みを知ったところで、分かっちゃいるけど分からなくなる、分かってるのに止められないのが深酒ですよ。格闘技なんかしたところで無駄です。中途半端に習ったところで、正しい殴り方を知ってさらに殴ってみたくなるだけです。そして酒は人を殺せるものです。急性アルコール中毒になるような飲み方はしていない?あなたのことなんてどーーーだっていいんです。酒に飲まれすぎたあなたが何かのはずみで他人を死なせてしまうことがあり得るのです。

次に、私も閉鎖されたバリッバリの体育会系空間出身ですからよーーーく分かっていますが、暴力はどんなに加減しても、どんなに親愛の情からであっても、ウザいんです。ウザい。悪意がないじゃれあいだからギリギリセーフなんてのは自分への甘さに対する八方美人に過ぎません。熱い友情は結構ですけど、それで美化できない年齢に片足、いや、3/4足突っ込んでいる自覚を持たないとダメです。

最後に、自制できない人こそ嫌われます。羽目を外すほうがモテるのは若いうちだけです。「ゴメン、俺は酒癖悪いから飲み過ぎないようにしてるんだ」と言えるくらいの方が、これから先の人生では信頼されますよ。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

酒呑む資格なし!

酒を断てない自分の弱さを棚に上げて
何が格闘技ですか!

楽な方に流れすぎ!
あなたには自制できる強さが必要。
男なら強くなりなさい。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

第二のJACO、GARYMOORE とならない

「どいてくれっ、中に入れてくれ。」
「何だテメーは。」
「俺を知らないのか。ジャコだ。ジャコパストリアスだ。」
「知らねえなぁ、アタマ冷やして出直してきなっ」ボカッ。
天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスは酒で酔っていた。
理性を失った彼はそれがアダとなって警備員に追い出され打ち所が悪く、命を落としました。泣(T_T)
人間国宝ゲイリー・ムーアは世界中に彼のギターを聴きたくて待っていた人たちがいたのに、お酒の飲み過ぎで突然命を落としました。
私も顔がゲイリームーアばりにくちゃくちゃになりました。(TдT)
ミュージシャンにとってお酒は楽しいものでしょう。
自分を開放する上でちょっとした力になるものかもしれませんが、薬を薬として用いるものは大成しますが、あなたはまだ大成もしていないうちから、溺れちゃイカンです。
伝説になってからです。
サンタナやウリ・ジョンロスのように酒でないものに酔えるようになると良いのではないですか?
ヒマな時に坐禅会にお越しください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

大慈 様
ご回答いただきまして、ありがとうございました。
ハッとさせられるお言葉でした。そもそもこんな心の弱い人間が格闘技なんかやっても解決にはならないこと、よく理解できました。
そして暴力はウザい、これも人からされることを想像してみると、ぞっとするほどウザいなあと。。。存外自分がそのようなことを受けたことがないので、格闘技をして痛みを知るのはどうかと思ったわけですが、よく考えたら格闘技はスポーツなので、そういったウザさは体験できませんよね。。。一生懸命相手のウザいであろう気持ちを想像して思い遣ることなのでしょうか。自分がいかに思い遣ることの出来ない人間なのか実感しています。。

四次元 法華塔 様
強い叱責のお言葉、ありがとうございました。
仰るとおり、易きに流れてしまう日々に悶々としています。
強くなるには何から始めればいいのでしょうか。

丹下 覚元 様
慈悲あるお言葉、ありがとうございました。
いろいろな気付きのヒントが、散りばめられているように感じました。
伝説になったからと言って、酒で死にたいとは思いませんが(汗)
機会がありましたら、おじゃまさせていただきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ