運命だからは逃げですか
こういう結果になったのは、運命だからだ。
そう思うのは、逃げなのでしょうか。
見えないものに
責任?を押し付けていることになるのでしょうか。
自分は努力してきたと思えても、よくない結果がかえってきたとき。
例えば、受験の合否だとか、就職の採用とか、人との関係、家庭内のいざこざとか。そういうのも縁がなかったとか、その道は自分の進むべき道じゃなかったからとか。
そういうのって、逃げになりますか。
運命とか、縁とか、見えないものに責任転嫁しているようになりますか。
そう考えるのは怒られ、バカにされますか。
もっと努力すればよかっただろって言われても、自分は努力したと思ってても、言い返す資格はないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「運命」と「ご縁」
以前のご質問と併せて拝読しました。夢が叶わなかったのですね。
自分の中では努力をした思いがあるのだけれど、それを周りの方には認めてもらえなかったのでしょうか。辛いですよね。結果が出なかったことが一番つらいから、せめてその努力という過程を認めて結果を含めて受け入れようとしているのに、周りからそれを否定されてしまうことは本当に辛い事だとお察しします。
さて、言葉の問題になってしまいますが個人的には
「運命」というのは、「これまで」も「これから」も全部決まってしまっているという意味。
そして仏教でいう「ご縁」というのは、「これまで」は自分の努力も含め様々な原因と条件が積み重なって生まれた結果であり変えられない、しかし「これから」はその様々な原因と条件によって変化し得るものであるという意味。
と、このように捉えています。
運命というものに全ての結果の責任を押し付けてしまうことは「逃げ」であるともいえるかもしれませんが、ある種の「救い」とも言えるかもしれません。それは「自己責任」からの解放です。
しかしここで注意したいのは、では自分の人生に全く責任がないのならいったい生きていて何の意味があるの?という「虚しさ」が生じてしまいはしないか?人生から「主体性」が奪われてしまいはしないか?という問題です。
「ご縁」というのはそういう意味では自らの責任も含めて、丸ごと全ての原因と条件が積み重なった結果を認めるという内容であり、そこには「自己責任」からの解放と「主体性」の確保の両方が同時に存在できるものであると私は感じます。
あなたが今目の前の状況において何らかの行為をしようと思った時、実際に「する」か「しない」かの選択によってその先は変わるでしょう?
もちろん「する」と決めたとしても実際にできるかどうかは「ご縁」によります。そして自分で「する」と決めたつもりでも、自分にその選択をさせたのはこれまでの様々な原因と条件の結果かもしれません。それでも「今」自分がどう選択するかによって生じる影響は後の自分の選択に影響を及ぼします。これを仏教では「業(ごう)」と言います。
「業」には「身業:何を為すか」「口業:何を話すか」「意業:何を思うか」の3つがあり、それによって自らが影響を受けていくと考えます。
あなたが「今」を受け入れ、「これから」に活かしていけることを念じます。
拝読させて頂きました。
その場の結果には確かに一喜一憂するでしょう。一生懸命に努力して勉強してもいい結果にならないこともあるでしょうからね。
とはいえその努力は無駄にはなりません。
努力して頑張った方の中にはその実りが必ずあるのです。それは目には見えなくても沢山の果報がその人にはもたらされているのです。
ただ目先の結果ばかりにとらわれてしまって自分の中で変わったことや成長したことや実りに気がつかないだけなのです。
勝負は時の運ですから、どうぞ何度もトライなさって下さい、様々な可能性に挑戦なさって下さいね。
必ずやその実りはあなたの前に形になるでしょうからね。
でもそれだけじゃないんです、自分が頑張って自分を信じて自分を褒めてあげて下さいね。そしてまた新たな未来に向かっていって下さいね!
あなたを心から応援してますね!
質問者からのお礼
もう少し、勝負してみようかと思います。
まだまだ終わってないと結果が来ました。
望みはかなり薄いですが、待ってみようと思います。