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姉弟な筈なのに

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何度かお世話になっております。今回もご教授頂ければ幸いです。

両親の事で何度かご相談させて頂きました。両親は今も冷戦状態が続いております。今回は弟についてです。

弟は幼少期からヘタレで色んな意味で驚くほどアホの子ですが、根は優しい子でした。

ですが、大学に入ってから全く家に帰ってこなくなりました。「サークルが忙しい」などと言って、1週間に1回帰ってくるかどうかです。帰ってきても深夜にコソコソと泥棒の様に帰ってきては部屋から出て来ず、また知らない内にいなくなっています。
一応私も同じ学校に行ってるので、大体の授業終了時刻や閉館時刻などは分かっているので、嘘を付いている事は明白です。
両親が何度注意しても全く聞く耳を持ちません。

そして、歳の離れた妹に時々無意味な暴力を振るようになりました。見かけるたびに私が止めに入っているので大ごとにはなっていませんが、いくら兄妹でも歳の離れた女の子に手を挙げるなんて許せません。

弟は貰ったお金をすぐに散財してしまうタイプで、お金が無いから欲しい物を我慢するということが出来ません。(友人からお金を借りてまで買ってしまう) 昔、何度か両親の財布や家にあるお金に手を出した事があります。

家に帰ってこない間は多分野宿をしているわけではないと思うので、誰かのお世話になっているはずなのですが、この様な過去があるのでどこかで人様に迷惑をかけているのではないかと気が気じゃありません。
でも、何度聞いても帰ってこない間に何をしているか、誰の家にご迷惑になっているのかを言いません。

正直なところ、会話もまともに出来ませんし、母に対して横暴な態度も妹への暴力も気に食わないしで色々と不平不満はあるのですが、両親の事もあるのでちゃんと帰ってきて家の事を手伝って欲しいんです。

ですが、弟が全く何を考えているのか分からないので、私も強めの口調で言ってしまいます。
どのように問い掛けたら家に帰ってきてくれる様になるのでしょうか?

よろしければ、ご教授頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

🌹乗せる🌹

男の子、オスはノセるに限ります。
毎週日曜の子供向けTVをご覧ください。
男の子番組の主役は皆ヒーローです。強さ、カッコよさ、男らしさなど「男の理想」があります。
女の子番組はプリキュアやアイカツやらでプリプリ、デコデコ、キラキラしています。
これは男女差別とかそういうことではなく、女の子は女の子でノセるべきものがあり、男は男で盛るべきものがあるということです。立てるところを立てる。男子には男子の尊厳があり、女性には女性の尊厳がある。
日曜日の朝の子供向けの番組の歴史は男子は男子のヒーローものがあり、女子には女子のヒロインものの番組があり、およそその内容が変わったことはありません。
これはヒントになるものが沢山盛り込まれていると思います。
男性は女性を学び女性の好むことを学ぶべきですし、女性は男性を学び男性という謎の生物を理解する必要があります。
禅の修行道場には「配役」というものがあります。
日頃パッとしなかったサボってばっかりの人が、ある役職に就くと急に目覚ましい働きをするコトがあります
分かりやすい居場所を家の中に作ってあげることも大事です。
家の中があまりにも女子女子していれば、男子はここに居場所はないと思うでしょう。
家の中があまりにもオトコ臭がしていれば女性はそこに居たくないものでしょう。
あなたが将来、パートナーとなる男性に対しても上手な関わり方、上手な接し方が必要になります。その練習、実践として男性目線で相手が喜んでくれることをやってみてください。
あなたのような表面的には厳しい面を持っているようでも本当はとっても家族思いでみんなの幸せを願う愛情あふれる素敵な女性であれば、きっとできるはずです。あ、タイトルご覧ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
お優しいお言葉ありがとうございます。
全く帰ってこないので、会話のしようがない状態が続いていたので、次に会った時には優しく聞いてみようと思います。

回答、ありがとうございました!

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