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仏像は撮影禁止?

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お寺に行くと、撮影禁止とよく書いてありますが、どうしてだめなのでしょうか?
こんなすばらしい仏像に出会ったとブログに書きたいのですが。
仏像の写真を撮られるとお坊さんとしては嫌ですか?
他の人がお参りしているときとかにはもちろん写したりはしないのですが

2013年10月22日 10:05

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「十全にそこに居る」ことの大事さ

kyosuke 様

 初めまして。久々に回答させていただきます。
 私もかつては「撮影禁止」ということにその理由がよくわからい一人でした。
 あるお寺で訊ねても、「フラッシュによる紫外線が仏像や仏画に影響するから」という、納得しにくい返答でした。

 しかし、人生の意味を探求するうちに気づいたことがあります。
 それは一言で申しますと、「十全にそこに居る」ことの大事さでした。

 「聖なるもの」である仏像と対峙し向き合うとき、私たちは「真の自己」を体験します。
 「聖なるもの」というのは、そのものがもともと「聖」であるのではなく、そこに向き合う私たちが「聖なるもと」とするのではないでしょうか。
 
 ファインダーの向こう側に居るのではなく、「そこに十全に居る」ことこそが仏像の持つ大きな意味であると思えるのです。
 他のことを一切せずに、ただただ「そこに居る」。それを体験することの大事さこそが、仏像をとおして気づくことなのです。
 すなわち人生において、スポーツのギャラリー(観戦者)ではなく、人生の主役としてプレイヤーでいることが求められるフィールド=「道場」であるというのが、その真意ではないかと思えるのですがいかがでしょう。

 私たちは日常において、常に「何かのため」に頭を使い、行動し、心を煩わせています。その中で、「何もしない」ということの大事さには気づきにくいものです。
 左脳の働きを鎮め心のざわめきが収まり、右脳とのバランスがとれて来た時に人は「十全にそこに居る」ことができて、人生のなかで最高のパフォーマンスを発揮するのです。

 河野秀海

2013年10月22日 11:12
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・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...

後光というフラッシュの中に

あなたが仏像を撮るときに、同時に後光というフラッシュにも照らされている、ということをお話しします。

まず、仏像の写真は活用のされ方が問われるのです。
宗教者であれば、仏像などを撮影するにしても宗教的に広報するように配慮できる立場が宗教者としてのプロ意識です。
宗教的に広報する、ということはどういうことかと申しますと、
その仏像の写真に人が救われるような言葉を添えるなどして、決して軽んじない、敬われるように重大な責任をもって是を扱う、ということです。

現代では、悪乗りでブログにアップしてしまう方も沢山おられます。
雑誌の表紙にもなります。せんとくんみたいなキャラクターも賛否両論です。
特に悪乗りされる方々などは自分のひけらかしの一つとしてぞんざいに扱い、その時ぞんざいな同一目線で曝されてしまいます。
kyosukeさんはそういう扱いをされることはないでしょう。
ですが、個人ブログにアップする、ということ自体、本当のところはもっと慎重であってほしいと思います。
数百年前に大誓願をもって創り上げられた仏師、開眼師、願いを持たれた信者さん、檀家さんの方々が存在していたということを、その仏像の背景に感じとってみてください。
仏像とは、誰のものでもありませんが、そういう方々が、大事にされてきた先祖、先亡の遺品でもあるという側面もあります。
仮にですが、あなたの親御さんの遺品を誰かがあなたに無断でブログに載せられ曝されたら、どういう感覚がするか。
そういう繊細な感性を、ご配慮いただければそこに小さな仏心というフラッシュがあらわれるのです。これは賛否両論以前の人間の感性。
先祖、先亡、飢饉、貧困、戦乱の時代に生きた方々、その人たちの願いを想像し、思いを馳せてみてください。
その光なき光。後光という光が感じられれば、誰であって写真を撮ろうとする指にためらいが生じるのではないでしょうか。
きっとあなたがどこかのお寺の本尊の前に立った時、このことを思い起こされ、撮らんとするその手を合掌に変えられれば、いっそう感性が磨かれ、感受性が高まり、仏像でなくとも、きっと良い写真を撮られるようになられると思います。
もし、あなたが仏像を撮るときに、無限の先亡の後光というフラッシュに照らされる、照らされている、それを感じ取れる人間であっていただきたい、というお話でした。

2013年10月23日 7:28
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丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

当庵は撮影OKです (^_^)

kyosukeさま
なごみ庵の浦上哲也と申します。

以前ご法事をお手伝いしていたお寺で、本堂の修繕工事をしました。その期間中はご本尊を客間に移し仮本堂としていたのですが、意外にもお参りの方に喜ばれました。
それは、普段は本尊まで距離もあるし、周囲に吊り物などがあってよく見えないのに、それがよく見えるからだったのです。

でも本尊=「本当に尊いもの」ですから、普段はあまりハッキリ見えるようになっていないし、触れたり写真撮影したりしないのは敬意の表れなのでしょう。
仏像の写真を撮るという行為は、それを美術品、つまりモノとして見ることに繋がるのだと思います。けれどお寺にとって本尊は礼拝の対象ですので、撮影が禁止されているのではないでしょうか。

ちなみに当庵のご本尊は、昨年12月に入仏式法要をしたばかり。光背は私自作のステンドグラス製です。小さい庵ですので、お参りの方は間近でまじまじと見つめて、携帯の待ち受けにしたいと写真を撮る方もいらっしゃいます。
よかったらkyosukeさんも撮影にお出で下さい (^_^)

2013年10月22日 22:09
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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

聞いてみてはどうでしょうか。

kyosuke様へ

撮影禁止の寺院ではなんらかの理由があると考えられます。
もしその思いがあるのでしたら
そちらを管理している方にお聞きするのはどうでしょうか。
私でしたらすごくうれしいですし、こっそり許可してしまうかもしれません。

ちなみに当山では許可なく撮影可能です。
どうぞ撮影してください。そして多くの人に伝えてください。合掌

2013年11月2日 11:56
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鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...

尊いものへの配慮

kyosuke様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに「撮影禁止」と拙寺においても仏殿のご開帳時には注意書きを掲げさせて頂いております。また、山門入り口付近にも「境内撮影禁止」との看板を一応は掲げさせて頂いております。

仏像撮影の許可・不許可については、仏像を所有・管理する寺社仏閣の所有権・財産権における権利の範囲内において判断されるものであり、参拝者もそれに従うのが望ましいことになります。

とはいえ、実際に順守して頂けるかどうかは参拝者のモラルに委ねるところが大きくございます。

拙寺でもあまりに目に余る行為があれば別ですが、それ以外では強く諌めたり、怒ったりすることはほとんどありません。

ただ、河野秀海様もおっしゃられるように「聖なるもの」と対峙する以上、やはりそれなりの「真摯さ」が求められるべき「尊いもの」、「尊厳を守るべきもの」としての配慮ある扱いが必要になるのではないかとは存じております。

もちろん、別に偶像崇拝については考える必要が出てくるかとは存じます。

釈尊は直接に言及なされてはおられないものの、偶像崇拝については、おそらく積極的にはお認めになられないことであったことは推測できます。(大般涅槃経における「自灯明・法灯明」がよくその典拠としては挙げられます)

「自灯明・法灯明」・・下記ページ参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釈迦#.E5.85.A5.E6.BB.85

が、仏像を礼拝・尊崇・観想対象としての修行を通じて、その向こう側にある御仏の智慧・慈悲との一体化を目指すという点において、そのための一助としての偶像も認めうるべき余地はあるのではないかと僭越ながらにも存じてはおります。

やはり、問題は何のために「聖なるもの」・「尊いもの」として大切にしなければならないものなのか、ということであります。

その慈悲の御心により、迷い苦しみある衆生を救い、涅槃へと導かんとする御仏、その法に対しての帰依を表すことと、そして己もやがて仏道を進みて、迷い苦しみある衆生を救えるように悟りを得んがためでございます。

拙生は以上のように存じております。もちろん、撮影をさせて頂く際にも仏像への敬意を持たせて頂いて撮影をさせて頂いております。

川口英俊合掌

2013年10月22日 16:02
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川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

本尊とお唱えの対応関係

 こんにちは。当家の菩提寺は曹洞宗なのですが、「うちのお寺のご本尊は歴史的な経緯から阿弥陀如来なんですよ」と住職に聞きました(あまり大きくもないこともあり、それまで遠目にはわからなかったんです)。宗派の本尊と各寺院の本尊が一致してないことはよくあることですので、それ自体はへえそうなんだ。ぐらいの感想でしたが、ちょっと後で考えてしまいまして。というのも、その阿弥陀如来様の前に「南無釈迦牟尼仏とお唱えしましょう」という掲示があり、ずっとそうしてたんですけど、目の前におられるのは釈迦如来じゃありませんよね・・・?「南無阿弥陀仏」じゃないんでしょうか??みんなに目の前で「南無釈迦牟尼仏」と言われて阿弥陀如来様はどう思われることなんでしょう?両方唱えてみるべき?  実は、法要の際に住職が「南無釈迦牟尼佛・南無高祖承陽大師・南無太祖常済大師」と列挙している部分に一言「南無阿弥陀仏」と挿入していたことがあり、おお!ここで配慮してたのかと得心したんですが、逆に言えば阿弥陀如来関係はここだけです。そもそも、曹洞宗のお経は釈迦如来や観世音菩薩関係のものばかりですよね。  寺の本尊もしくは各家庭の仏壇の本尊と、お唱えやお経って、必ずしも対応してなくてもいいものなんでしょうか?多分いいんだろうけど、なんでなんでしょう?(だって、そうじゃないと薬師如来や地蔵菩薩や不動明王のお経なんか唱えたくてもまず唱えられませんよね。)如来や菩薩は相互に「私の前で誰それからこんな読経があったよ」と報告してくださってるのか、それとも上司不在時の代理決裁のように宛先が別の如来でも処理してくださるのでしょうか?このあたり、どう理解したらいいものなんでしょうか、よろしければ回答お待ちしております。

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仏像は開眼しないと霊が入るのでしょうか?

お世話になっております。 夜分遅くに申し訳ございません。 以前、質問にお答え頂きまして、誠にありがとうございました。 今回、質問したいことなのですが、 私は聖観音様の仏像を肌身離さず、 持ち歩いているのですが、つい先日、 私の知り合いのお坊さんに 開眼しないと霊が入ることがあると教えて下さいました。 ただ、開眼供養していないとは言え、 私が持っている聖観音様には、沢山のことに気付かされ、 沢山、助けて頂きました。 物凄く感謝していますし、hasunohaのサイトで、 他の方の質問を拝見した所、気持ちがこもっていたら、 開眼しなくても大丈夫とのことは、すでにわかっていたので、 全く開眼せずに、毎日、仏像を拝むことと、 真言 (1日30分~50分前後) を唱えることで、 観音様への感謝の気持ちを伝えていました。 それほど、観音様にはお世話になっているので、 仏像は、開眼しないと霊が入ると言うご意見は、 正直、信じられないのですが、そんなことってあるのでしょうか? また、もう一点質問なのですが、 開眼することによって、観音様の性格?のようなものが 変わったりすることなどあるのでしょうか? 私は、今持っている開眼前の観音様に 大変お世話になっているので、 もし性格?のようなものが変わったりするのでしたら、 正直、開眼をしたくないとも思っています。 一生死ぬまで、この観音様を持ち続けたいです。 ですが、開眼することによって、 観音様が喜んでくださるのでしたら、 それこそ、普段できない観音様へのお礼ができるので、 開眼したいとも思っています。 また、もし本当に、 私の知り合いのお坊さんが仰るように、 霊などが入ったりするのでしたら、 開眼は必要だとも思っています・・・ 因みに、知り合いのお坊さんは、 儲けのためとかでは全くなく、 善意で、無料で開眼してくださるとのことでしたので、 悪気などは全くないのは、わかっていますし、 そのお坊さんが良かれと思って、 私のために仰ってくださっていることも、 しっかり理解しているだけに、どうするか悩んでいます。 毎回、長文になってしまい、 大変申し訳ございません。 いつもhasunohaの、お坊様には、 ご迷惑をおかけしてしまい、大変恐縮ですが、 教えて頂けましたら、幸いです。

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