hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

仏像は撮影禁止?

回答数回答 5
有り難し有り難し 165

お寺に行くと、撮影禁止とよく書いてありますが、どうしてだめなのでしょうか?
こんなすばらしい仏像に出会ったとブログに書きたいのですが。
仏像の写真を撮られるとお坊さんとしては嫌ですか?
他の人がお参りしているときとかにはもちろん写したりはしないのですが


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「十全にそこに居る」ことの大事さ

kyosuke 様

 初めまして。久々に回答させていただきます。
 私もかつては「撮影禁止」ということにその理由がよくわからい一人でした。
 あるお寺で訊ねても、「フラッシュによる紫外線が仏像や仏画に影響するから」という、納得しにくい返答でした。

 しかし、人生の意味を探求するうちに気づいたことがあります。
 それは一言で申しますと、「十全にそこに居る」ことの大事さでした。

 「聖なるもの」である仏像と対峙し向き合うとき、私たちは「真の自己」を体験します。
 「聖なるもの」というのは、そのものがもともと「聖」であるのではなく、そこに向き合う私たちが「聖なるもと」とするのではないでしょうか。
 
 ファインダーの向こう側に居るのではなく、「そこに十全に居る」ことこそが仏像の持つ大きな意味であると思えるのです。
 他のことを一切せずに、ただただ「そこに居る」。それを体験することの大事さこそが、仏像をとおして気づくことなのです。
 すなわち人生において、スポーツのギャラリー(観戦者)ではなく、人生の主役としてプレイヤーでいることが求められるフィールド=「道場」であるというのが、その真意ではないかと思えるのですがいかがでしょう。

 私たちは日常において、常に「何かのため」に頭を使い、行動し、心を煩わせています。その中で、「何もしない」ということの大事さには気づきにくいものです。
 左脳の働きを鎮め心のざわめきが収まり、右脳とのバランスがとれて来た時に人は「十全にそこに居る」ことができて、人生のなかで最高のパフォーマンスを発揮するのです。

 河野秀海

{{count}}
有り難し
おきもち

・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...
このお坊さんを応援する

後光というフラッシュの中に

あなたが仏像を撮るときに、同時に後光というフラッシュにも照らされている、ということをお話しします。

まず、仏像の写真は活用のされ方が問われるのです。
宗教者であれば、仏像などを撮影するにしても宗教的に広報するように配慮できる立場が宗教者としてのプロ意識です。
宗教的に広報する、ということはどういうことかと申しますと、
その仏像の写真に人が救われるような言葉を添えるなどして、決して軽んじない、敬われるように重大な責任をもって是を扱う、ということです。

現代では、悪乗りでブログにアップしてしまう方も沢山おられます。
雑誌の表紙にもなります。せんとくんみたいなキャラクターも賛否両論です。
特に悪乗りされる方々などは自分のひけらかしの一つとしてぞんざいに扱い、その時ぞんざいな同一目線で曝されてしまいます。
kyosukeさんはそういう扱いをされることはないでしょう。
ですが、個人ブログにアップする、ということ自体、本当のところはもっと慎重であってほしいと思います。
数百年前に大誓願をもって創り上げられた仏師、開眼師、願いを持たれた信者さん、檀家さんの方々が存在していたということを、その仏像の背景に感じとってみてください。
仏像とは、誰のものでもありませんが、そういう方々が、大事にされてきた先祖、先亡の遺品でもあるという側面もあります。
仮にですが、あなたの親御さんの遺品を誰かがあなたに無断でブログに載せられ曝されたら、どういう感覚がするか。
そういう繊細な感性を、ご配慮いただければそこに小さな仏心というフラッシュがあらわれるのです。これは賛否両論以前の人間の感性。
先祖、先亡、飢饉、貧困、戦乱の時代に生きた方々、その人たちの願いを想像し、思いを馳せてみてください。
その光なき光。後光という光が感じられれば、誰であって写真を撮ろうとする指にためらいが生じるのではないでしょうか。
きっとあなたがどこかのお寺の本尊の前に立った時、このことを思い起こされ、撮らんとするその手を合掌に変えられれば、いっそう感性が磨かれ、感受性が高まり、仏像でなくとも、きっと良い写真を撮られるようになられると思います。
もし、あなたが仏像を撮るときに、無限の先亡の後光というフラッシュに照らされる、照らされている、それを感じ取れる人間であっていただきたい、というお話でした。

{{count}}
有り難し
おきもち

当庵は撮影OKです (^_^)

kyosukeさま
なごみ庵の浦上哲也と申します。

以前ご法事をお手伝いしていたお寺で、本堂の修繕工事をしました。その期間中はご本尊を客間に移し仮本堂としていたのですが、意外にもお参りの方に喜ばれました。
それは、普段は本尊まで距離もあるし、周囲に吊り物などがあってよく見えないのに、それがよく見えるからだったのです。

でも本尊=「本当に尊いもの」ですから、普段はあまりハッキリ見えるようになっていないし、触れたり写真撮影したりしないのは敬意の表れなのでしょう。
仏像の写真を撮るという行為は、それを美術品、つまりモノとして見ることに繋がるのだと思います。けれどお寺にとって本尊は礼拝の対象ですので、撮影が禁止されているのではないでしょうか。

ちなみに当庵のご本尊は、昨年12月に入仏式法要をしたばかり。光背は私自作のステンドグラス製です。小さい庵ですので、お参りの方は間近でまじまじと見つめて、携帯の待ち受けにしたいと写真を撮る方もいらっしゃいます。
よかったらkyosukeさんも撮影にお出で下さい (^_^)

{{count}}
有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
このお坊さんを応援する

聞いてみてはどうでしょうか。

kyosuke様へ

撮影禁止の寺院ではなんらかの理由があると考えられます。
もしその思いがあるのでしたら
そちらを管理している方にお聞きするのはどうでしょうか。
私でしたらすごくうれしいですし、こっそり許可してしまうかもしれません。

ちなみに当山では許可なく撮影可能です。
どうぞ撮影してください。そして多くの人に伝えてください。合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...
このお坊さんを応援する

尊いものへの配慮

kyosuke様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに「撮影禁止」と拙寺においても仏殿のご開帳時には注意書きを掲げさせて頂いております。また、山門入り口付近にも「境内撮影禁止」との看板を一応は掲げさせて頂いております。

仏像撮影の許可・不許可については、仏像を所有・管理する寺社仏閣の所有権・財産権における権利の範囲内において判断されるものであり、参拝者もそれに従うのが望ましいことになります。

とはいえ、実際に順守して頂けるかどうかは参拝者のモラルに委ねるところが大きくございます。

拙寺でもあまりに目に余る行為があれば別ですが、それ以外では強く諌めたり、怒ったりすることはほとんどありません。

ただ、河野秀海様もおっしゃられるように「聖なるもの」と対峙する以上、やはりそれなりの「真摯さ」が求められるべき「尊いもの」、「尊厳を守るべきもの」としての配慮ある扱いが必要になるのではないかとは存じております。

もちろん、別に偶像崇拝については考える必要が出てくるかとは存じます。

釈尊は直接に言及なされてはおられないものの、偶像崇拝については、おそらく積極的にはお認めになられないことであったことは推測できます。(大般涅槃経における「自灯明・法灯明」がよくその典拠としては挙げられます)

「自灯明・法灯明」・・下記ページ参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釈迦#.E5.85.A5.E6.BB.85

が、仏像を礼拝・尊崇・観想対象としての修行を通じて、その向こう側にある御仏の智慧・慈悲との一体化を目指すという点において、そのための一助としての偶像も認めうるべき余地はあるのではないかと僭越ながらにも存じてはおります。

やはり、問題は何のために「聖なるもの」・「尊いもの」として大切にしなければならないものなのか、ということであります。

その慈悲の御心により、迷い苦しみある衆生を救い、涅槃へと導かんとする御仏、その法に対しての帰依を表すことと、そして己もやがて仏道を進みて、迷い苦しみある衆生を救えるように悟りを得んがためでございます。

拙生は以上のように存じております。もちろん、撮影をさせて頂く際にも仏像への敬意を持たせて頂いて撮影をさせて頂いております。

川口英俊合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ