平手
叩かれたいです。だめな自分を毎日叩いてほしいです。叩かれたらしゃんとするかなって思います。だめすぎて嫌です。苦しいです。毎日叩いてくれる人がほしいです。おぼうさん毎日叩いてますか、叩かれていますか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教は非暴力なので…
”叩かれたらしゃんとするかなって”
ま、気持ちはわからんでもありませんが。
あなたの抱えている問題は、
叩かれた程度で済むような簡単なものなんでしょうか?
”おぼうさん毎日叩いてますか、叩かれていますか”
ちょっと質問の意味がわかりません。
禅宗さんなどでは、坐禅中に警策という道具でたしかに人を叩きますが、それはあくまでも行者を励ますためであって、悪いヤツをぶちのめす為のものではないと聞いております。
死にたい、死にたいとすぐに喚く人たちよりは断然にマシだとは思いますが、ご自身の課題に真正面から向き合う勇気を持てるといいですね。
”だめすぎて嫌です”
勇気をもってその中身をもって告白し、hasunohaのお坊さんたちに改めて相談し直してみてはいかがでしょうか?
助けて欲しい、でも誰かを特定されたくない
助けて欲しい、でも誰かを特定されたくない。だからあなたは書けないのですね。しっかりと助けを求められないのですね。
自分がダメだと思っている、周囲のごたごたは全て私が悪い、私の所為だと思った方が楽だ。だからがんばりたい、がんばらねばダメだ。でも疲れ切ってがんばれない、死にたくなる、逃げ出したくなる時がよくある。だから疲れ切っているときお坊さんに叩かれて気合いを入れてもらいたい。そういう意味で質問かと思います。疲れ切って休みたいと限界だと心と身体が悲鳴を上げてるのにそこで無理やり渇を気合いを入れてもらってがんばるのはやはり禁じ手だと思います。寝なくても気持ちが一時的に冴えて集中できるけど、それが途切れたらその何倍も疲労感にさいなまれ心身とも壊れていく覚醒剤を繰り返し打つようなものです。渇を入れてもらって一時的に神経は高ぶって無理してもその反動は仕事にも私生活にも高い利息が付いて自分に返ってきます。そこでまたより渇を入れてもらって・・・・。悪循環を続けますか。あなたに必要なことは仏教の智恵です。周囲のごたごたはあなたが全て悪いわけではない、全て自分の所為だと思うのは無意識にそう思う方が自分にとって楽だと勘違いしてるし、少し離れてごたごたを客観的に視る余裕もなくしているからです。本当は一休みしたいけど、一休みする余裕などないと思い込んでいるのでしょう。トラブルを客観的にみて解決の道筋を見出す力も失われているのでしょう。そしてこの闇は晴れることはないと勘違いしているのでしょう。だから出口は見えなくても闇雲に心に身体に渇を入れて歩き続けようとしている気がします。出口が見つからなくても、途中で力尽きてもそれはそれでいいかと半ば自棄になりながら。そうではなく今はしっかりと立ち止まり闇の中から出口の灯りを見つけるべきなのです。見つけられなければ迎えに来てくれる助けを求める声を出すべきなのです。あなたを助けようとしている探すその声に応えるべきなのです。それが仏のお教えであり智恵です。助けようとするその声を聞き取る、信じ応えるのが信仰です。信仰は自分を助たいとの声を力を信じようとする想いの積み重ねです。どうぞもっと打ち明けてくれるよう仏さまとの縁を深めてください。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
向き合うのつらいです。
お返事ありがとうございます。
ありがとうございます。
仏教難しいです。
お返事ありがとうございます。