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しゃっくりだかひゃつくりだか

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しゃっくり?ひゃっくり?百回したら死ぬって本当ですか?横隔膜の痙攣なのはわかるのですが、なんでこう言われてるのでしょうか。

リビングでしゃっくりが止まらなくなって、うるさいってめっちゃ不機嫌な声と顔で言われたのですが、止まらないんだから仕方ないですよね。
すごく怒られたんですけど、私の親はしゃっくりとかしない人間?なのでしょうか。私は地球で産まれたし、しゃっくりもするので地球人のはずですが、あの人はどこかの惑星の人形の生命体か。それとも宇宙人に乗っ取られているのか。理不尽すぎてしゃっくり以外出ませんでした。

ムカムカーッてきました。この苛立ちどうしたらいいですか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

しゃっくりは自分じゃできない

ヒャック。
こんにち…ヒャック!
ごめんなさい。
今、人生で3639回目のシャックリが…ヒック。
鼻つまんで水のめとか言いますが、あんまり効きませんかね。
「理不尽過ぎてしゃっくり以外出ませんでした。」
名言ですね。
今年のhasunoha質問者様「名言大賞」に推薦します。
もう少しそこに盆栽のハサミ入れと言いますか、テコ入れしますと、
そのシャックリそのものが理屈を超えたシャックリですよね。ヒャック!
自分がやろうとしてやってないのだから。
だから、それを悟りのきっかけにするのですよ。
自分がやろうとしてやってない働きがこの身体にはある。
ほぼ、無自覚な体の作用。
あくび、呼吸、せき、くしゃみ、ぷぅ…
これらは自分がやっとらんものです。
もっと言えば、
見える、聞こえる、香る、感じる…
これも自分がやっとらんのです。
わかるかな。
もっと言いましょう。
今、色んな思いがPONPON生まれてくる。
これも自分がやっとらんのですよ。
思うことすら自分がその思いをつくろうとして生み出していない。
よーく、見てみてください。
最初の発生時点においては、思いというものは絶対に自分がやっとらんものです。
さらにもっとみてみまひょか。
(# ゚Д゚)むかむかー
これだって自分が怒ろうと思って怒ってないのです。
最初の時点では、それを聞いてムカムカーってなった。
自分の思い通りにならんとムカムカしてくるものですから、自分の中に理想の自分設定・マイルールがない方がイイ。
そうするとどこかの惑星の人形の生物さんたちも、こちらが干渉することが無くなるのでお互いに人畜無害なかかわりになります。
遠くの惑星からやってきた謎のナントカ星人というのが家に住んでるとします。
空気中のハウスダストが大好きだとします。
それは習性なのです。
だからその習性はナントカ星人の為にもあれこれ言っても変わらないので、そっとしておくしかありません。「なんでこいつハウスダストばっかり食ってんだよ」とムカムカしても起こるだけ損です。だって好きなんだもん、ハウスダスト。
人間にとっては怒ることもアレルギー反応のひとつ。
そこに居る両親星人はアナタが何言われても怒らんようになって世界を救える人になるために心のアレルギー反応をなくするためのあなたの仏の修行のパートナーです。私も今日仏の世界から派遣されたトレーナーです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そういうモノなのだから、仕方ないと思いきるように頑張ります!

よかったら推薦しといてください笑

ご回答
ありがとうございました

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