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亡くなった父を殺したのは自分だと思います。

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約3か月前に父を亡くしました。父は進行性の難病を持ち、それでも本当に難病を持っているのかと思うぐらい、自分のことをは自分で行い、シッカリした生活を送っていました。
母は体が弱く、自分のことで精いっぱいながらも父のことを診てあげていました。
父は、穏やかな性格で、誰からも優しい人だといわれていました。自分のことよりも人のことを考えるような人でした。
そんな父に私は、日頃から厄介者的な発言をしては、父に涙を流させてしまっていました。

そんな父が、軽い肺炎から心臓が悪いことが判明し4週間の入院となりました。突然死もあり得るといわれました。でも、無理をしなければまだ生きることができるかもしれないともいわれました。
厳しいが、死を宣告されたわけではありませんでした。

退院後、帰宅を願う父に対して聞く耳を持たずに、自宅から近い老人介護施設へ自宅に戻らず入所させました。
それが母にとってもいいと勘違いしていました。
父は入院中から、難病からかと思われる無呼吸状態に頻繁、「息が苦しく辛い」訴えていました。
施設入所時は、話すこともおぼつかないぐらい弱り、延命的な治療は断り、本人の希望もあり、息が苦しいことを取り除く緩和を行いました。
食事は、入院中から私が「本人がほしがらなければ無理させないで」と言い、徐々に食べなくなりました。本人のことを思ってではありませんでした。勝手に父は死に向かっていて、苦しまないで逝かせてあげると解釈して行ったことでした。

徐々にモルヒネが増え、意思の疎通ができない寝たきりの状態になり、ほんの少し口にしていた食べ物もまったく口にしなくなり、枯れるように静かに逝きました。
最期は、私が看取りました。
ずっとつぶっていた眼を少し開けて遠くを見るようにしていきました。

私は父に対して最初、助からなくてもいいという思いを持ち、対応をしていました。父のことを考えず、自分が大変にならないことを基準にしてことを進めました。
私の行動は確実に死に向かわせていました。

助からないと分かった最期の4週間ぐらいから、やっと気が付き今までのお礼や詫びを伝えたりしました。

でも、父はもっと生きることができたと思います。奇跡もあったかもしれません。
父から受けた大きな恩を、私は大きな仇で返してしまいました。

今は泣いて暮らす日々です。
今私にできることを教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お墓の前で謝ってきて下さい

あなたの本心が自分がやるべきことを怠ったからそうなったと思うのならば、そこに向き合い、お父さんに詫びるべきです。
死んじゃってからでは遅かった、という事も分かったでしょう。
お父さんはあなたともっと話したかったと思いますよ。
娘を持つ父親は娘がいくつになって可愛らしいものです。
だからこそ娘から相手にされなくなってさぞかし寂しかったと思います。
今でこそ言えるはずでしょう。
何故そうしたのかを。
ちゃんとお墓でご報告なさってお詫びしてきて下さい。
あなたとお父さんのコミュニケーションは今からまた始まるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
今日は納骨でした。これから父と沢山向き合い沢山詫びます。
大事なことを学びました。
取り返しのつかないことを学びました。

これから自分がしてしまった事をしっかりとお墓の前で話をして謝ります。
謝り続けます。

ありがとうございます。
今日は納骨でした。これから父と沢山向き合い沢山詫びます。
大事なことを学びました。
取り返しのつかないことを学びました。

これから自分がしてしまった事をしっかりとお墓の前で話をして謝ります。
謝り続けます。

お墓の前で自分の言葉で飾らずに謝りました。
これからも、頑張ります。
母には父にしてしまった事をしないようにしないといけないと思いました。
わがままな気持ちを正せるようにしたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ