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母親の死 後悔だらけです。

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12月3日 約5ヶ月の闘病で私の母は亡くなりました。 
私は、離婚して子供はなく実家に6年前出戻りました。
離れて住んでいる時はとても、仲が良く大好きな母親でした。 でも、最近は、ケンカもせず、私が話をするのも避け何日も母と会話しない日もありました。 (母に離婚の事をチクチク言われる事が嫌だった)
今は、その事が悔やんでも悔やんでもどうする事も出来ず母のお仏壇の前で毎日謝っています。
元気な頃、一緒にご飯が食べれた事や何気ない会話がどんなに幸せな事だったか、今思い知らされています。
朝昼晩と、母に出来たての仏飯をお供えするたび涙が止まりません。
私自身バチがあたったと思います。
一番私を愛してくれて心配してくれた母を無視して、最後は、自宅でお腹が痛いと言われ救急車で運ばれ、大動脈乖離で緊急オペをし5ヶ月以上も意識朦朧で食事も水も採れず会話も出来ずに亡くなりました。
母が居なくなってどんなに後悔しても母が帰ってきてくれる訳ではないけれど、今の私は、
身の置き場がありません。
心がぺしゃんこになりました。
兄姉も近所に住んでいるのに、初七日に自宅に来ただけでそれ以降、一度も母にお供えする訳でもなく、お線香もあげに来ません。
そんなものなのでしょうか?
時間がない人達ではないです。
その事について妹の私は、注意しても良いのでしょうか?
自宅前を、通るのにそのままスルーして手も合わせないのっておかしいと思うのですが?
私自身が偉そうな事を言えないのですが
今、母に出来る事は、手を合わせてありがとうお母さんと思う事しか私にはできないから、、

どんな事でも、バカな私に教えて下さい。
宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母はあなたにどうしろと言っていましたか

あなたがそこに向き合えば、あなたの中のお母さんがお喜びになられましょう。
そこに向き合わず、あなたは自分を責めてばかりだからいけないのです。
今日は心をやすめて、いたずらに自分を責めることをやめてください。
あなたのお母さんは、生前あなたが何をする事に怒っていたと思いますか。
あなたが不幸になるように仕向けてそんな事を言っていた訳ではないでしょう。
あなたがどうなる事を望んでいたのでしょうか。
それをじっくり考えてください。
誓願を立ててください。誓いを、です。
49日まで、自分の心をしずめて、49日にはちゃんとお母さんに向き合ってご報告ができるよう、しっかり自分の心をおさめてください。
あなたが離婚したのも、あなたの何かが暴れたはずです。
今もそこが暴れている。
それを鎮めずして「忌」=おのれの下に心=心をおさめる事にはなりません。
歩むべき道は、その心をおさめる道、己の心をおさめる道、仏道です。
仏道とは仏道という宗教らしいものがあるのではありません。
人間万人に共通するおのれのエゴ、自我、我執、我見に向き合い、その心をおさめ一生涯の安楽をることです。それが一番の供養になるのです。世の母で、誰が自分の心のやすらぎを願わない母がありましょうや。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

誰でも後悔は残ります

まず、肉親を亡くして後悔しない人はあまりおられないと思います。たいていは「あの時、ああしておけばよかった」「あんなことをいわなければよかった」と思うのではないでしょうか。しかし、そうした至らなさをも受け容れてくれるのが親というものではないでしょうか。だから親は有難いのですし。

そんな親御さんのお参りにおいでにならないのでしたら、ご兄弟におっしゃってお参りなさるように促すのは、言い方こそよく考える必要はありますが、必要なことだといえます。今のままではご兄弟も後悔なさると思います。逆効果にならないようタイミングとかもよく思案なさったうえで、言ってあげてください。

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おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
了教寺の藤岡様
安穏寺の丹下様
今一度、自分を見つめ母と暮らして行きます。

誓願、情けないですが初めて知りました。
誓いを立てます。

兄弟に話を、するとき言い方やタイミング考えます。

ありがとうございました。

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