お坊さんからの回答 1件
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「ほとけふる」です。 智慧の現われ 慈悲
悟りや涅槃、安らいというのは実はそういう身近なところにあります。
ですが一度っきりの体験主義では「昔食たべたイクラはうまかった」と言っているに等しし。
ですから、その安らいの状態を維持して生活に役立てるのが坐禅です。
坐禅はダイレクトに悟り状態に到れます。
人間のもともとの状態は悟り・涅槃なのです。
ゆえに本来成仏と言います。
誰でも悩んだり、苦しむのは嫌です。
悩みや苦しみとは思考のペダルをこいでいる状態なのです。
心は思考のアクセルを踏んだりやペダルをこいでいる状態と、こいでいない状態があるのです。
坐禅は能動的な思考アクション🚵を一切やめてしまいます。
するとアラ、マァ不思議なことにあなたが体験した感受だけ、事実だけ、モノは見えるが思考というテロップが生じないダイレクトワールドの生中継が展開されるではありませんか。
それを非思量・不思量といいます。
そこに徹していくと、私を認める意識が忘じられます。
これを道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならい、自己を忘れ、法に証せられることである。」とお示しです。
後はその状態になってみれば自分が一番わかります。
仏教で説かれている法というものの中身そのものになります。
諸行無常 オラが身の上に現われる知覚が常に新たなり
諸法無我 オラが身の上に現われる者は一切人間の思いとは無関係
涅槃寂静 オラが身が触れちょることは人間の見解が無いから静寂
実に端的で簡単です。
そういう様子であると、私とか外の世界、見るもの見られるものというのが分析知をつかさどる左脳が黙っていますからボーダーレスなのです。しかも、暖かくてやはらかなる、ちはやふるならぬ「ほとけふる」。
是非、坐禅会にてここを深めていただきたいと存じます。
当山の坐禅会には「悟り」を世間では語れない人が時々集まります。
悟りなどという言葉を口にすると世間では危ない奴だと思われてしまうのだそうです。
浄土宗さんでは悟りということはあまりいわんでしょうから。言葉が違えども心のありかたは同じということがあります。
禅、涅槃、マインドフル、ヴィパサナー、正覚、お信心、お安心、やすらい、仏の悟りの周波数777Hz。総じてみんな「ほとけふる」。
「ほとけふる わが身の為すことやすめつつ ものとわれと もとよりひとしし」
わたし意識を絶して相手にしてあげる心を慈悲と言います。