hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

彼の地元に嫁ぐ事

回答数回答 1
有り難し有り難し 15

遠距離恋愛で結婚を考えている彼がいます。

結婚して家族を作っていくなら、同じ場所に住みたいと思っています。
彼は地方に、私はどちらかといえば東京までほど近い都会に実家があります。

彼は長男であり、兄弟は結婚はしていませんが既に家を出て遠くに住んでいて、長男の責任感からか、結婚しても実家の近くに住みたい、将来的には持ち家である実家を受け継ぎたいと思っている様です。

ですが、都会育ちの私には友達や両親と離れて慣れない田舎に行くのは不安があり、決心がつきそうにありません。

贅沢かもしれませんが、小さな頃からの夢で、自分の好きな場所でいずれ自分の好みの家を建てて暮らしたい。と言う思いがあり、彼の実家に将来住むのならそれが叶えられないように思い、悲しくなります。

親のそばにいてあげたい彼の気持ちはとても良く分かりますが、私も自分の両親に対して同じ気持ちでいます。

自分達で決めた場所や海外ならば 割り切れるのですが、彼の地元に行くということだと彼にとって良い事ばかりで私にとって良い事は何もない様に思ってしまいます。
その事を自己犠牲だと思ってしまう自分が悲しいです。こんな気持ちのままで行っても彼も嬉しくないだろうし、お互いにとって良くないと思います。

その様な事を考えていると、まるでホームシックの様に涙が出てきます。
彼の思いも、私の思いもそれぞれ強くあり、お互いに好きなのにお別れしてしまいそうです。今後、彼ほど信頼できる人は現れないのではとも思います。

何か道はないものかと考えています。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思いや思考、ファンタジー、幻想よりも実物を相手にしよう。

まず、いまやっていることが全~部自分の思ったことだけを相手にされてしまっているということを自覚して頂くべきです。
(*´Д`).。o〇
・彼にこの話を言ったら嫌な顔されるかな(アタマでやっている)
・ああ、理想のマイホームが(頭で描いている)
・ぶっちゃけ、イナカ、行きたくねーなー。(頭で思っている)
・ダニとか毛虫とかいるんじゃなかろか。ああ、キモ。🐛 (頭で描いて恐怖している)
・ああ、戦地に一人で赴くようなものだ。誰もいない。同居だろうか。義理の母とか同居とかマジカンベン。ゼッタイ無理。ああ、帰りたい。(まだ、嫁いでないっつの。)

私は最近、真実ばかり相手にしていますからいたって健やかハッピーライフです。
仏教って要は頭の世界の住人からアドレス変更して事実の世界の住人になることなんス。
頭で思っていることって真実じゃないのです。
真実じゃないものを相手にするのが人間の8割9割百パーです。(百パーかい)
そういう頭で考えたものをテンドームソウと言います。ニンテンドー無双ではありません。顛倒夢想。ちゃぶ台ひっくり返しくらい物事をまるで別物に見ていることです。
だって、まだ彼氏に自分の意思を伝えたわけじゃないし、その彼だって本当は実は浮気性かもしれないし、イナカ行ったら結構楽しかったりするかもしれないし、わたしなんか田舎大好きですし、虫とか長野県みたいに普通に食べてるところかもしれませんし、食べられるようになったらいざ、飢饉の時にイナゴとかザザ虫🐛とかハチの子とか食べてれば生き延びられるかもしれないし(☜頭でやってます)。義理の母とかスンゲー仲良くなるかもしれませんし、ザザ虫とか超ウマいかもしれませんし。(長野県の皆さますみません。八のコトかいつもお土産買ってます)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなりましたm(_ _)m
自分の中で理解してからお返事をしたかったので、少し時間がかかりました。
将来の道筋を決めなくてはと気負って頭で考える事ばかりをしていたんだと思います。私の悪い癖です。
いつも気付かせて頂きありがとうございます。
色々と試してみて、それでまた考えていこうと思える様になりました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ