八正道の正見と正思
八正道の正見と正思について質問があります、正しく見るとことと正しく考える。
正しくってなんでしょうか?
どうなったら正しいのでしょうか?
どうやって正しくするのですか?
身近な例をあげて教えていただけませんか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間の思想的「正しさ」がないところ
自民党は自分たちが正しいと思っている。
民主党は自分たちが正しいと思っている。
公明党は自分たちが正しいと思っている。
共産党は自分たちが正しいと思っている。
以下、全政党が自分たちこそが正しいと思っている。
また世界に存在する宗教はみな自分たちの宗教こそ最も「正しい」と思っている。
また禁断の一言を述べれば、
日本の仏教宗派ですら多くは同じです。
仏教仏法の真意を理解していない思想に堕した宗派、もしくは思想とどまりの僧侶たちは、自分たちの宗派こそ正しいと思うでしょう。
本来、釈迦の時代に宗派の隔てもなかったはずなのに。
つまり、それらは「正しい」=「正義」的な解釈・見解であって、正見・正思惟の「正」ではないのです。
お釈迦様の「正見」は、人間的【観念的・相対的】な正しさに属さない「正しさ」なのです。
わたくしという自分を中心とした正しさの事ではないのです。
それは、日本語では「正しい」という言葉しか当時見当たらなかったので「正」という字があてられていましたが、意味としては「思考以前のものとして見ること」が正見です。
自分の価値観や判断以前の世界。
実物だけを見ていることが正見、正思です。
たとえば尖閣諸島や竹島も、本来日本のものでも韓国のものでもの中国のものでもない。
ただ島がポンとあるのが仏の正見です。
人間にとっての正しさというのは、自分を中心としたものの見方です。
それは、観念の上に置いての正。
自分にとっての「正しさ」でしかないのです。
思想の上の正義は奪い合いを起こす。
アンパンマンにはバイキンマンが悪者になる。
誰かにとっての正義、誰かにとっての「正見」はニセモノの正見です。
世の中あなたの前にある事象全て問題ない
あなたの目の働きは、物に触れればそのまま正しく映しています。まがって嘘を映し出すことはありません。そこに好き嫌いもなく、全てをありのままに受け入れているのです。そうした働きに学び修行することの重要性が「正見」でしょう。
私たちは、物事を考えて損得、善悪、等の価値判断をすぐに付け加えます。しかし、物事を考える以前に、正しく存在するのです。私が今飲んでいるコーヒーは、美味しいとか、まずいとか、眠れなくなってしまうとか、そんなことを考える以前に存在し、飲めばその味がしているのです。それが物事の正しい姿。考える以前です。「正思惟」でしょう。
煩悩や自他の苦しみをなくす方向が「正」
仏教の教えの基本は、四諦と八正道です。
四諦とは、
①苦諦(生には必ず苦・不満足があるよ)、
②集諦(苦の原因は欲・怒り・愚かさ等の煩悩だよ)、
③滅諦(煩悩を滅ぼせば苦・不満足を滅ぼすことができるよ)、
④道諦(煩悩を滅ぼすための方法はあるよ)、という4つの真理です。
で、八正道とは、④道諦、つまり煩悩・苦を滅ぼすための方法です。
なので、八正道の「正」とは、煩悩・苦を消す方向性を意味します。「善」です。
その方向から逸脱する場合は、「邪」「悪」です。
例えば人を殺すと、自分の煩悩を強化しちゃう「邪」だし、殺された他人やその家族は苦しみますから「悪」です。
邪なことをやったり語ったり思ったりすればほど心には悪い癖がつき、煩悩は強化され、苦しみは減らないのです。
正しいことをやったり語ったり思ったりすればするほど心に善い癖がつき、煩悩は弱まり、苦しみが減るのです。
教え通りなら正しいと判断
人間はすべてにおいて不完全ですから
仏の教えに照らし合わせ正誤を判断します。
正しく見たり考えるには基準となる
「教え」を学ぶ以外に方法はありません。
倫理道徳では時代、国、文化により
正しさが異なってしまいます。
ですから宗教が必要になるのです。
「中道」
遠慮様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「八正道」における「正しい」とは何かというご質問、実は拙生も昔に疑問に思ったことがございます。
もうかれこれ八年も前に書いたものにて、色々と恥ずかしい、修正・訂正・補足したいと思うところばかりですが、下記のページの内容をご覧下さいませ。
施本「佛の道」・第七章「八正道・中道」
http://www.hide.vc/hotokenomichi7.html
ここでは、「正しい」とは、偏見・差別・恣意性の無い「中道」であるというようなことが書いてございますが、それでもやはり、曖昧というか、抽象的であるとお感じになるかとは存じます。
また、それもそのように主張する、定義付けている、あなたの主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足ではないのか、と言われてしまったら、そこまでになってしまいます・・
では、何を正しさの根拠とすべきかとなりましたら、四次元法華塔様のおっしゃられていますように、如来・覚者による真理の教えを根拠としなければならないのではないかと拙生も考えます。
そして、その教えを実践していくことによって、間違えのない仏道を歩むことで、確かなる悟りへと向かっていかなければならないのではないかと存じております。
但し、すでに釈尊もご入滅なされておいでであり、この世に如来・覚者は現在いらっしゃられないため、釈尊のお言葉が、釈尊の後世に弟子たちによりまとめられている仏典、聖典、あるいは論書等を頼りにして、その真理の教えを探究していくことが必要になります。
また、「八正道」の別名が「中道」と言われておりますように、「中道」とはいかなる事態であるのかということを考えてみるのも「正しい」ということの理解へと向けて重要になるのではないかと存じております。
もし、ご興味が更におありでございましたら、龍樹(ナーガールジュナ)大師の「中論」の内容も学ばれると良いのではないかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
みなさん回答ありがとうございます。
とても参考になりました。