蜃気楼
掴めそうで掴めない蜃気楼ばかり。
蜃気楼でも見えたのは確かだから必ずあるはず。
ない ないばかりでは面白くないから、あるかもしれないものを探したいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝読させて頂きました。
そうですねものごとも人も移り変わり留まることはありません。みな実態のないことばかりのように思います。
そう思うと仏様の法つまり真理以外には真のものごとはないでしょう。
己れの正しい道を寄る辺として生き抜き、法つまり真理を寄る辺として生きること、お釈迦がお説きなさった教えを基本として生きて頂きたいと心より思い願います。
仏様の教えである仏教は必ずやあなたにとって蜃気楼ではない真のよりどころとなるでしょうから。
真理に近づいておられます。
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
誠に真理に近づいておられるのではないだろうかと存じます。
確かに、全ては蜃気楼のようなもののようなあり方でありますが、決して何も無いというわけでもありません。
確かにモノ・コトは、あるにはあるのではありますが、そのありようは、まるで蜃気楼のようなものだとして表現されるものとなります。
例えば、龍樹大師の中論では、
観三相品第七 「つくられたもの(諸現象・有為)の考察」
35 あたかも幻のように、あたかも夢のように、あたかも蜃気楼(ガンダルヴァ城)のように、生はそのようであり、住はそのようであり、滅はそのようである、と説明されている。
観顛倒品第二十三 「顛倒の考察」
8 いろかたち・音・味・触れられるもの・香り・「もの」は、たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く)、蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており、陽炎や夢に似ている。
などとして、蜃気楼、あるいは、陽炎、夢、芭蕉、雷とも表現されることのあるこれらは、仏教における「空」と「縁起」ということを説明する際に使われるところとなっております。
是非、仏教を学び修されていかれる中で、「空」と「縁起」ということの理解も深めて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
仏教だけが真。心にとめます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
仏教における「空」「縁起」ですか?
空はどこにあるとも言えず、縁起も人間の心の持ちようだから、これもまた、どこにあるとも言えない。だから蜃気楼や陽炎、夢などになるのでしょうか。