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助けてください

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有り難し有り難し 23

実家暮らしの20歳です。
高校卒業後関東に一度就職しましたが肌に合わないことと体調を崩したことで地元に戻り働いています。
本題なのですが最近家にいることが辛いです。理由は様々ありますが半年ぐらい前から母がなにかと文句をつけてきて辛いのが大部分で、すごく辛いと思い始めたのが最近です。
私が出来損ないな子供なのが悪いのは分かるのですがここ最近の母の言い分は二転三転することは勿論、ただの価値観の押し付けや仕事のストレスの捌け口になっているとしか思えなく、言っていることを理解することができなくなりました。もしかして私は発達障害なのかもしれませんが、姉や弟や父への文句も全て私にぶつけられ、精神的には参っています。
抑えきれずに反論しても聞く耳も持ってくれませんし悔しくて涙が出ても「泣いても意味ないんだから」と私の気持ちは理解してくれる様子は今のところありません。
私が母に言われているところをみて父は助けてくれる様子もありませんし姉も母の味方のように見えます。弟は年頃のせいか「ざまあみろ」と小声で言われたり何もないのに睨んでくるような始末です。
「あんたは家にいてもいつも面白くなさそうにする。外で愛想良くできるなら家でもしなさい」と怒られるのですが私は文句や傷つけられるようなことを一方的に言われてもなお愛想を振りまくことはできません。
将来的なことや自立したいこともあり、家を出る気ではいて貯金中ですが毎日このようなことが続き、正直本当に辛いです。
私ばっかり…とは思いたくもないですし勿論わたしにも非があるのですがそう思わずにいはいられなくなりました。考え方や見方を変えたい気持ちがあってもふとしたときに浴びせられた言葉で家族を憎いと思ってしまいます。
滅茶苦茶で申し訳ないのですが助けてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は自分のやっていることを知らない

以下のことを紙に書いて家族全員に渡しましょう。
自分たちがやっていることを自覚して頂くことをお勧めします。
口で言って前のデータを引きずって話をしてくる家族は何を言っても「だからお前は」と感情的に否定されお話にならないからです。

私はこの家で怒られたり、叱られてばかりですみません。
私はこれから先も永遠に裁かれたり悪く言われ続けられなければいけないのでしょうか。
私がお父さんお母さんたちの願うような理想的な子供でないとしても、否定、否定、否定され続けるのはとても娘としても苦しいことです。わかってください。
何度も文句を言われると心の行き場がなくなってしまうのです。
もし子供、私を良くしたいと思ったら少なくとも今のやり方はとても苦しいです。文句を言ったり否定することはやめてください。
私は家族が大好きです。
お母さんの言いたい気持ちも理解できます。今後はあまり価値観の押し付けや仕事のストレスの捌け口にしないでください。姉や弟やお父さんの文句も全て私にぶつけるのをやめてください。本当に精神的に参っています。
反論しても聞く耳も持ってくれなくて悲しいです。悔しくて涙が出ても「泣いても意味ないんだから」とどうして私の気持ちを無視するのでしょうか。
相手の弱い立場をいいことに責め立てる行いは親としても人間としても良いこととは思えません。
お父さんもお姉ちゃんも今後、母があまりにも私にばかり言うようになったら、見て見ぬふりの傍観者とならずに、本当にみんなが幸せになったり、昔みたいに明るくなれるように助けてほしいです。
弟も「ざまあみろ」とか睨んだりせず、弱い者いじめをするような人にはならないでほしいです。
私が家にいて苦しい事。もう、今後は文句や傷つけられるようなことを言うのはうちの家族ではやめてほしいです。
私ばっかり…とは思いません。勿論わたしにも非がある部分はあります。そこはごめんなさい。治します。
でも、人の事を悪く言っても人は良くならないと思います。
私がここでみんなのことを責めたらみんなもイヤなはずです。
もっと、家族みんなで悪い言葉や傷つくことや、相手が嫌がることはやめていきませんか。
これを読む時にもどうか悪意や悪く受け止めないでください。お願いします。
生きることはつらいことです。だからこそ家族でお互いにケアしあって昔みたいに仲の良い家族になりたいです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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