自分の事に集中して生きたい。
私は障害者のため、無職で精神科デイケアに通所しています。
私が20代の時に母を亡くし、今は高齢の父・祖父母と同居し、父の妹である叔母が家事手伝いに来ています。
私自身、神経が過敏で人混みや大音量、騒音などが苦手です。
また、自身がきちんとした性格のため、だらしない人や身なりに気を遣わない人が苦手です。
・まず、精神科デイケアでは色々な人が通所するので、声が大きい人、他人を傷つける人、身なりが整っていない人、距離感が分かっていない人など、自分とは気が合わない人もたくさんいます。
・家に帰れば高齢の身内がいるので、いくら私が掃除や片づけをしてもすぐに家の中が散らかってしまう状態。福祉サービスも利用していないので、まさに老老介護、障老介護といった感じです。
叔母もガサツで、片づけるのが下手。人の嫌がることを強制しがち。
何かとすぐ思ったことを口に出すので、人の欠点を笑いながら話したり、こっちがヒヤヒヤするほど、理解できない行動が多くて困ります。
障害のこだわり特性で、デイケアに行っても家に帰っても常に余計なことを考えてしまい、頭が休まりません。
それに加えて、地域社会でのあらゆる騒音などもいちいち気になってしまい、いくら啓発本等で「自分の為に時間や頭を使いましょう」という知識を得ても、実生活に活かされていません。
来年は少しでも他人の事を気にせず、自分の事だけに集中して、がんばりすぎずに自由に生きてみたいのですが、環境が整っていない中で、どうしたら「人は人、自分は自分」と考えて寛大に生きていけるんでしょうか。
私自身、自覚もしているし周りからも「優しいね」と言われるくらい、「NO!」が言えない“いい人”で、生まれてからずっと、そういう育て方をさせられてきました。
自分より他人優先という生き方を、ゆっくり少しずつでも逆にしていきたいので、何か良い方法があれば、教えてください。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの人生ですから
発達障害、失声症と!本当にご苦労なさっておみえですね。
また、ご身内の事まで、良く頑張っておみえですね。
頑張る事と、無理をする事は、違います。
たまには、立ち止まってみましょうよ。
、なーーーんにも考えずに、自分の事だけ考える そんな時間をつくってみても、よいのでないでしょうか
何か違うものがみえてきますよ。
「他人のため」も自分のプライドが原因
他人のことが気になる、その「気になる」という苦しみは、あなた自身の苦しみなのでは?
つまり、「他人のため」「他人のせいで」と思っている苦しみの正体は、あなた自身の欲・怒り・怠け・プライドなんじゃないでしょうか?
質問を拝読した中だけの印象なので、間違っているかもしれませんが、あなたは、自分で自分を「きっちりした性格」だと評価し、それに比べて「だらしない」他人が多いと評価していますね。
つまり、あなた自身が自分の「きっちりした性格」にプライドを持ちすぎていることが、手抜きができない原因になり、忙しさの原因になっている気がします。
どうぞ、もう少し「だらしない」あなたになってください。そうすれば時間に余裕が出るかもしれません。
琴の糸は、ゆるめすぎると音が出ないが、きつく張りすぎると切れてしまうと、お釈迦様は説かれました。
頑張る自分が好きだというプライドを捨てるよう意識してみては?
ところで、優先したい「自分のこと」とは、何かやりたいことがあるのでしょうか。
やりたいことがあるなら、先に自分のやりたいことをやるように、順番を入れ換えてみてもいいかも。
事の一念三千
じのいちねんさんぜん、と読みます。
難解な法門ですので言葉だけ覚えて下さい。
少し眠い話をしますが最後まで。
人はみな仏性を持っています。成仏の可能性のことをいいこれを畑に例えます。
これだけをいくら磨き耕しても種を植えなければ芽はでない、伸びない、花咲かないから実も得られない。
そこで仏様は成仏の種、仏種(ぶっしゅ)を私達に残して下さいました。
その種の中に一念三千という核(成仏の根本原因)があるのです。
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その一念三千の意味を識らない者も仏種を植えれば自然に成仏の芽は伸び成仏の木の実を得ることができるのです。
その仏種とは「南無妙法蓮華経」でありこれを何度も唱えることで仏性に仏種を植えることになるのです。
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観念的と思われているでしょうが、宗教は哲学と違い、必ず実践と結果が伴います。
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精神は心です。心に「魔」が入り込むことで僕たちは様々な障害に悩まされているのです。心から魔を追い出すには強い意志が必要です。魔には厳しい態度で望みしっかりと仏種であるお題目を唱える、すると本心を取り戻しますから心の目が開いてきます。心の目が開いてきますと、それまでの世界が変わってくるので悩みは少しずつ消えていくのです。
また、お題目を唱える者には必ず諸天善神のご守護があることが法華経に説かれています。
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心の持ちようで本心が取り戻すせるかといえば無理です。それは現状に目を背けているにすぎません。
変わりたければ強い意志を持ち心の魔と闘うことです。
質問者からのお礼
回答、ありがとうございました。
長谷雄蓮華さんの、シンプルで優しいお言葉で、少しほっとしました。
「自分の事だけを考える」・・・実際にやるのは難しいですが、
1分でも2分でも、そんな時間を持てたらと思います。
願誉浄史さん、ありがとうございます。
確かに、生まれながらに「きちっとした性格」をしつけられて育てられたため、曲がったことが大嫌いで、
いい加減な生き方ができません。
来年は、少しずつでも「だらしない」自分に変えていこうと思っていて、休息・適当をモットーに過ごしていけたらな~と考えています。
蓮華さんの言われた「頑張ることと無理することは違う」という言葉を心に置いて、肩の力を抜いて前向きに、周りを気にせず自己中心になりたいです。
ありがとうございました。