欲望のコントロール
この前、20代~30代の数人で話していたときのこと。
「人間の欲望は限りない。自分でこれ以上踏み込んでいけないことを決めないと、コントロールできなくなってしまう。」という結論に達しました。
科学技術を発展させるのはいいですが、アクセルだけでなく、ブレーキも持つ。常にブレーキを踏み続けるのも問題だと思いますが、心のなかにブレーキも持つ。それが、倫理なんだと思います。
生活が便利になるということは、ある種、不便になることだと思います。これからの時代、自分と所有している機械でエネルギー量を考えていかないといけないなと思います。車に乗り、たくさん食べるっていう生活は、エネルギーの浪費。その結果、肥満というしっぺ返しをくらうと考えています。エネルギーの浪費は、資源の浪費。生活の糧を奪われている人や生物がいるというように考えることもできます。
身の回りの資源や道具のことを知り、欲望をコントロールする能力は大切なのだと思います。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝読させて頂きました。
あなたのおっしゃる通りだと思います。
みんなで仲良く分け合いながら共に頂く食事は有り難いことです。そして頂くものへの感謝の気持ちも生まれてきます。
逆に何でも独占しようとすると心は貧しくなっていくのですし、得られない人も増えてくるのです。
そして争いが生まれて悲劇や不幸が連鎖していくのです。
共に生き足るを知ることが本当の豊かさですからね。
先ずは自分自身が、そして回りの人達が、そして社会や国家や世界がそう理解してお互いを尊重しあいながら支え合い助け合えば自ずと正しい道となりますからね。
それが幸せな生きる道ですよね。
時代・社会・人間を観る眼が問われる
欲望をコントロールする能力は大切な事はおっしゃる通りだと思います。
しかし、それが人間個人に期待され「心のブレーキ」という「倫理観の問題のみとして議論されるならばそれは誠に心許ないものとなってしまうでしょう。また、倫理観の有無で個人の人間性の優劣が選別されるものともなりかねません。
なぜならば、欲望のコントロールが人間個人のものである限り、それはその個人の欲望に基づいてされる欲望のコントロールであるからです。「欲望をコントロールしたいという欲望、コントロールできるという欲望(迷い)」ですね。
それができない身であることを自覚させていただくところに仏教の人間観の深さがあるのだと思います。
仏教においては仏(真実の教えを伝えてくれる存在・はたらき)・法(教え)・僧(教えを聞くもの・聞く場)の3つの宝が大切にされるわけですが、「欲望のコントロール」についてより具体的に社会生活において考えると法整備・教育がその役割を担うことはもちろんですし、他者とのつながりもそうでしょう。
個人の思い(欲望)が思い通りにいかないことは相当なストレス(煩わしさ・めんどくささ)でありますが、そこにはやはり人が見失いがちな大事なものがあるのでしょうね。
今の時代が、便利さのみが追求され、他者とのつながりなど自分の欲望をコントロール、あるいは制限してくれる役割をになってくれるようなものが排除されていくようなものであるとしたら、それは個人の倫理観でなんとかできるという傲慢さに立った時代観・人間観であるとともに、個人に責任が押し付けられてしまう生きづらいものでもあるのでしょう。
質問者からのお礼
〉kousyo kouuyo azuma 様
ご回答、ありがとうございました。
今、ふと思い付きました。オセロゲームみたいだなと。自分を磨いて白にしていくか。
世の中のものは「当たり前」などないのに、当たり前だと思っている。無事に生まれてくるなんて奇跡なのに、その奇跡が日本ではほぼ100%起こっているため、奇跡だと思わない。コンビニにいけば、品物が並んでいますが、農家、生産ライン、物流のどれがかけてもコンビニに商品が届かない。人しか関与していないわけでもない。全ては「有難い」ことなのに、有難いと感じることが難しい。心から有難いと思えるようになることが修行なのかもしれませんね。
〉吉武文法 様
ご回答、ありがとうございました。
最近、人の繋がりを避ける傾向にある人が多いと感じます。物事の原因は、一人の人に責任を負わせることはできないのに、一人の人に責任を負わせることがあります。特定の価値観を押し付けることもあります。私自身も気を付けなければならないところです。