やむを得ない殺生やそれに伴う苦しみについて
先日、ベランダに卵程度の大きさの小さなハチの巣ができていたので、
駆除することになりました。
巣を作っているハチは3匹で、駆除を行うときにはどこかに出かけたのか
1匹いませんでした。
強力な殺虫剤を吹きかけ、2匹のハチは死に床に落ちました。
その後、巣を物理的に粉砕し、駆除は終わりました。
30分ほどして出かけていたハチが戻ってきましたが、当然、
巣も仲間もいません。暫く周囲をうろついてどこかに飛び去って行きましたが、
翌日、また戻ってきて巣を探しています。
その次の日もまた戻ってきて、巣と仲間を探していたと妻から聞きました。
自分が行っておきながら勝手ですが、この様子が大変哀れでなりません。
家族の安全のためとはいえ巣を破壊しましたが、この様子が大変哀れでなりません。
この罪悪感は今まで味わったことがなく、とても苦しんでおります。
こういった、やむを得ない殺生やそれに伴う苦しみについて、仏教においての
答えがあればお教えいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まずは、相手を案じる
質問文拝見しました。
五分の虫にも一寸の魂ということわざがあります。
ご自身を責める罪悪感、お気持ちお察しします。
でも、内容を問わず自分のことばかり考えている状態で、相手に目を向けずお留守になっている状態では頭の中をぐるぐる回るのみです。
おさまらないのは私の気持ちかもしれませんが、相手を案じる視点に発想を切り替えるといかがでしょうか。
主語が「わたし」なら後に続く言葉は「殺してしまった」になりますが、「ハチ」にした場合後に続く言葉はどうなるでしょうか。
私ならば、
今度は人の手で命の落とすことの無い世界。
人の都合に振り回される苦しみの無い世界。
願うなら苦の無い世界で健やかに過ごして欲しいと思います。
そんな世界は本当にあるのかどうかは分かりませんが、苦の無い世界を涅槃、浄土といった教えが仏教です。
仏に成る方法はいろいろあるようですが、私が聞いた教えは仏になることを願うことで成仏する教えです。
誰かの願いによって仏に成る。
この世では名も無き、誰の記憶にも残らず生を閉じる虫が多い中、おにぎり様の願いで虫が成仏する。
事実は変わらないかもしれませんが視点を変えるならば罪悪感を菩提や慈悲に変換できる。
仏に救われる世界で苦の無い生活を送って欲しいと私は願います。
質問者からのお礼
大変優しいお言葉をありがとうございます。
確かに自分の都合で苦しい苦しいと言っており、相手の立場でという視点が欠けておりました。
未熟さを恥じるばかりです。
「何者かに対して願う」「相手を案ずる」ことは今回に限らず、今後も生きていくうえで
心がけたいと思います。
この度は、糧となる助言をいただき、誠にありがとうございました。