「從是西方 過十万億佛土」について質問させて頂きます。
先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です)
阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。
阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。
しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている)
この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。
すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。
私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。
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優れているってのはちょっと違う。。。
ご質問ありがとうございます。
親鸞聖人自身の「阿弥陀経論」や「阿弥陀経講義」といった著書があるなら理解がスムーズにすすむと思うのですが、親鸞聖人は自論より先人の論を辿るという姿勢のほうを強く感じます。
ご質問の部分。
優という言葉は比較のことば。何と比べて優なのか。優があるところ劣がある。ということで僕はあまり好まない表現です。
そのうえで、西方の悟りがまだ道の途中。西方を過ぎたところに真の仏土があるというニュアンスで西方を過ぎるという扱いをしたところとしては、
化身土巻の源信往生要集を引いていらっしゃる部分。
「西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず」
という部分。
みんな西方で道草食ってばかりでゴールにたどり着くのはほんとうに少ないから、そんなんじゃダメだ。ちゃんと阿弥陀如来の仏土に往きなさいよ的な。部分が西方と真仏土の比較になっちゃったのかなと察します。
でも、親鸞聖人の極楽観、浄土観というのは他の書物(『西方不可思議尊』から始まる文類や高僧和讃の竜樹菩薩の部分「本師龍樹菩薩は 『智度十住毘婆沙』等 つくりておほく西をほめ すすめて念仏せしめたり」のでの西方リスペクトを感じます。
いづれにせよ、優劣で論じるよりともに喜び合う姿勢は大事にしたいと考えております。
追伸、安楽集にこんな一説がありました。参考になれば。。
問ひていはく、あるいは人ありていはく、「十方浄国に生ぜんと願じて、西方に帰せんと願ぜず」と。 この義いかん。
答へていはく、この義類せず。 なかに三あり。 なんとなれば、一には十方仏国も不浄となすにはあらず。 しかるに境寛ければすなはち心昧く、境狭ければすなはち意もつぱらなり。 このゆゑに『十方随願往生経』(意)にのたまはく、「普広菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、十方の仏土みな厳浄なりとなす、なんがゆゑぞ諸経のなかにひとへに西方阿弥陀国を歎じて往生を勧めたまふ〉と。 仏、普広菩薩に告げたまはく、〈一切衆生濁乱のものは多く、正念のものは少なし。 衆生をして専志あることをあらしめんと欲す。
從是西方 過十万億佛土について
御質問有難うございます。「從是西方 過十万億佛土」というお言葉は仏説阿弥陀経の御文でございます。このお言葉は「従是西方過十万憶土有世界」(これより西方に、十方億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う)という事でございます。率直に意味合いをお伝えさせて頂くと「私たちは阿弥陀様の御慈悲(御救い)により十方億の仏土を過ぎた世界が西方浄土であり、西方浄土は極楽と名付ける」という事だと説かせて頂きます。もう少し精進させて頂きます。合掌