昔の禅僧が書いた漢文の意味
変わったご相談で申し訳ございません。
昔の禅僧がお書きになった言葉を一緒に読み解いていただけませんか。
古岳宗亘(1565-1548)という禅僧の語録集『生苕稾』を読んでいたところ、ふと心をひかれて気になった文章がありました。
それは、幼くして亡くなった子供の供養を依頼されて肖像に賛を書いた文章だと思うのですが、いかんせん漢文に疎くてどんな言葉が残されているのか、なかなかわかりません。
亡くなった子供を雪山童子になぞらえているのだろうとは思いますが、特に後半の意が掴めません。
大聖国師はどのようなことを説いておられるのか、なぜかこの肖像文がとても気になっております。
何卒お力をお借りできませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。
以下原文と書き下し、解釈案です。
小児肖像 熊岡息男
你於二月十三而脱胎、
先雪山童子涅槃者日云二、
你於四月十六而帰寂、
後雪山童子降誕者日云八、
日異月同互換出没、
産此寧馨、老妪何物、
手中雀児、是死是活、
無限丹青肯難描出、
你(なんじ)は二月十三において脱胎し、
先雪山童子涅槃は日二なると云ふ。
你は四月十六において帰寂し、
後雪山童子降誕は日八なると云ふ。
日異なれども月同じくして互換に出没す。
産は此(かく)の寧馨なり。老妪は何物なるか(?)。
手中の雀児、是死せるか是活くるか。
限り無き丹青、肯へて描き出し難し。
あなたは二月十三日にこの世に生まれ、
雪山童子の涅槃は四月二日であるという。
あなたは四月十六日にこの世を去り、
雪山童子の降誕は二月八日であるという。
日付は異なるが月は同じく、生まれた月と亡くなった月が互いに取りかわるようにして、あなたも雪山童子も生まれて亡くなった。
産まれるということはこのようなものである。
老いた女性は何物であるか(?)。
手の中の雀の子は、これは死んでいるのか生きているのか。
限りない絵の具を以ってしても、あなたを描きだすのは難しい。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
追悼の意味と同時に雪山偈について書いたものでは?
調べますと、古岳宗亘(こがくそうこう)は、枯山水の庭を創案した人として有名で、後奈良天皇より正法大聖国師の号を賜った室町時代の臨済宗大徳寺派の僧との事です。
小児肖像 熊岡息男
熊岡さんという方の息子さんの画が描かれていて、それの賛でしょうか
雪山童子(せっせんどうじ)とは、釈迦が過去世に修行していた時の名前で、雪山童子が修行していたときに帝釈天から「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」(ものごとはうつりかわり うまれたものは必ず滅する うまれ滅するものが滅したとき 静かな安楽が得られる)という偈(雪山偈)を聞いたという説話があります。尚、ここではお釈迦様の降誕と涅槃の日をそのまま雪山童子の誕生と命日としているようです。
雪山童子(お釈迦様)の入滅が2月15日で、この子が生まれた2月13日とは2日違い(2日先)
雪山童子(お釈迦様)の生誕が4月8日で、この子が亡くなった4月16日とは8日違い(8日後)。
日は違うけど、月は入れ違いになっているという事でしょうか
「寧馨」は「このような」といった意味なので、「産まれるとはこのようなものである」という意味にしかなりませんね
「老妪何物」についても「老いた女性は何物であるか」と読めますが、この文脈の中では唐突で意味不明ですね。そこで「妪」の「おんなへん」を「身」にしてみる(躯)と、老いた体は何者だ、となりますので、前句と合わせて、生老死は自然現象であるという事を言いたいとも考えられます
「手中雀児、是死是活」については、「手の中の雀の子は、死んでおりまた生きている」と読めますね。描かれた子供さんの手に雀が描かれているのでしょうか?
「無限丹青肯難描出」の部分ですが、あなたの解釈通り
「限りない絵の具を以ってしても、あなたを描きだすのは難しい」とするのが自然でしょうか
禅僧の偈ですので、何か仏教的な意味が含まれていると考えますと
「産此寧馨、老妪何物」が「諸行無常 是生滅法」を表しており
「手中雀児、是死是活」が「生滅滅已 寂滅為楽」を表しており
「無限丹青肯難描出」は「どのような画をもってしても説明するのは難しい」という意味にもとれますので、
お子様の追悼の偈であると同時に、雪山偈「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」の説明の難しさを言っているのかもしれません。
初めて見ますし古文にも仏典にも詳しくないので素人の感想ですがこんな感じに読みました。素人なので軽く読み飛ばしてくださいね。
あなたは二月十三日にこの世に生まれました。
雪山童子は二月二日に涅槃に至りました。
あなたは四月十六日にこの世を去りました。
雪山童子は四月八日に降誕しました。
日付は異なるが月は同じく、生まれた月と亡くなった月が互いに取りかわるようにして、あなたも雪山童子も生まれて亡くなった。
産まれるということはこのようなものである。
老いることもなく。
手の中の雀の子は、これは死んでいるのか(どこかで別の姿で)生きているのか。
限りない絵の具を以ってしても、(生まれ変わった)あなたを描きだすのは難しい。
(亡くなったことは悲しいけれど、どこかで別の姿で生まれていると願いましょう)
質問者からのお礼
ご回答をくださりありがとうございます。
中々難しくて骨の折れる文ではありますが、読んでくださり感謝いたします。
「亡くなったことは悲しいけれど、どこかで別の姿で生まれていると願いましょう」というのがとても素敵な読みと感じました。
手の中の雀の子はまた別の姿で生きていてほしい、生まれ変わったあなたを描き出す(見つける)のは難しいけれど、どこか別の姿で生きていると願いたい……
「七つ前は神の内」と言うほど、昔は子どもの多くが幼いうちに亡くなっていたと聞きますが、やはり2カ月余りで亡くなった子どもでもどこかで生まれ変わっていてほしいという親心は変わらないのでしょうね。
一緒に考えてくださりありがとうございました。
一目見て何か気になった文だったのですが、ますます何か心にしみるものがあります。
光禪様
わざわざお読みくださって意味を教えてくださりありがとうございます。
「先雪山童子涅槃者日云二、後雪山童子降誕者日云八」というのがよくわからなかったのですが、なるほど「お釈迦様の入滅より2日先、お釈迦様の誕生の8日後」ということなのですね。
「老妪何物」も確かに「妪」を「躯」と読んだ方が通りがよいと思います。
そして「産此寧馨、老妪何物、手中雀児、是死是活」が雪山偈の「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」を表していると知って、ますます奥深く感じます。
偈というのは難しく、そして趣深いものですね。亡くなった子ども、それを想う親の気持ち、そこに仏教の教えを照らし合わせる。
ますますもっと仏教のことを知りたくなりました。
本当にありがとうございました。