神仏を拝み、衆生を助けたいと思う気持ちはエゴでしょうか
今まで、イジメ、パワハラなどを他者から虐げられる日をすごし、
結果、心の病として現在静養しております。
しかし、静養するうちに、ふと気になったことがあり、悶々としていることがございます。
「今まで他人からいじめやパワハラで虐げられてきたのに、
自分と同じ、またはそれ以上の苦しみを持つ人を救いたい。
そのためにも神仏に手を合わせ拝み、請い願い、些細なことでも善行を積もうとすべく、功徳を積もうとする」のは、
己のエゴなのしょうか?
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
”自分と同じ、またはそれ以上の苦しみを持つ人を救いたい”
心から手が合わさります。一体、これのどこがエゴなのでしょうか?(笑)
そもそも、なぜあなたは今までに人一倍の苦労を背負わされなければならなかったのか?
それは、あなたには仏法の正しさ、尊さの証明を仏様から任されているからだとは考えられませんか?そして仏様のご期待通り、あなたは心が病むほどの酷い仕打ちを受け続けても、ちゃあんと他者への祈りを忘れなかった。
これ以上の尊いことはない。
本当に本当にご苦労さまでございます。
仏教はどんな宗派も例外なく成仏することを目的とするのですが、
じゃあ何の為に仏になるの?必死に善根功徳を積んでとうとう仏になったとして、で、結局どうしたいの?と考えた時、
苦しんでいる人、悲しんでいる人たちを救わんが為だと私は思います。つまり、今のまま凡夫の分際では、泣いている人たちを根こそぎ丸ごと最後まで救いきるなんてことはまず無理。だから、私たちは成仏を目指します。思う存分、困っている人たちを救って救って救いまくりたいから成仏を目指します。
だから、あなたのその志はエゴなんかのわけないでしょう。
何卒、これからも自信をもってご精進されますように。
私もあなたに負けないようにがんばります。合掌
エゴ付き悪よりは、エゴ付き善の方か良い
完全にエゴをなくすには、仏や阿羅漢と呼ばれる聖者と同じように悟る(煩悩を滅する)必要があります。
現実的に、私達は、すぐにはそのように悟れません。
しかし、悟っていない(エゴがある)私達でも、慈・悲・喜・捨の四無量心といわれるような善い心と、それに基づく善い言動を実践することはできます。
エゴ付きでも善行はできるのです。
エゴ付きの悪よりは、エゴ付きの善の方がかなりマシです。
エゴ付き善をくりかえし「修行」することが、いつかエゴをなくす(悟る)ために役立つと思います。