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断ち祈願をしたままの生活。今後の生き方をご教示下さい

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有り難し有り難し 33

本当に今後どう進めばよいかわからなくなり、苦しくて仕方ないので質問させていただきました。よろしくお願い致します。

3年程前に主人の不倫問題でとても悩み、子供達の為にも離婚はしたくなく、自分にできる事は全て行い(全て主人の希望通りにしてきました)その上で色々な神社にお参りをしていました。(家族や夫婦に御利益があるという神社を中心に回っていました)
毎日ネットで夫婦再生の情報を血眼になって探す毎日。
そんな中「断ち祈願」という方法を見つけました。何かを断つ代わりに神様にお願いを聞いてもらうという方法です。
その時、私は三度の飯より好きだったお菓子を断ちました。
この三年間、お菓子は全く食べておりません。
ただ、このお菓子を断つという方法、社会生活の中でなかなか難しい場面も多く…。
例えば、訪問先でお菓子を出して頂いたり、友人の家などでお菓子を出して頂いたり…。
この3年間は何とか誤魔化しその場は断ってやってきましたが、これが一生となると社会生活の上で成り立つのか…と思ってきました。
後、性格の問題なのかもしれませんが、色々な食材や料理をいちいち「これはお菓子じゃないのかな?!大丈夫?!」と気にしてしまうのです。
例えばキッシュは甘いのから食事系まであり、食事系のキッシュだとしてもパイ生地が使われてる。パイ生地はいいのだろうか…などと気にしてしまうのです。

と、いうのも、断ち祈願をした神社は小野照崎神社といい、寅さんが断ち祈願をして、寅さんの役を手に入れたという断ち祈願で有名な神社で、断ち祈願を破ると、自分ではなく、大事な人達に何か良くない事が起こる、と言われているのです。

ただ、断ち祈願自体神様と取引するようなお願いの仕方で本来やっては行けない方法だ、というのも後々聞きました。

今年に入ってからはお参りに行く際には「断ち祈願ではなく、月一回お参りに来させていただきます」という形でお参りに行っています。

断ち祈願をやめる?改めさせて頂く正式なやり方はあるのでしょうか?
また、断ち祈願はやめたとしても本当に周りに災いはないのでしょうか?

神社に聞いた所、断ち祈願をやめるお祓い??のようなものはあると言われたのですが、どうしたらいいのかわからずやっておりません。

本当にどうしたらいいのかわからず、日々の生活が苦しいです。

どうか回答をよろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「自分の納得」が迷いの元

神社でされたことについては神社に聞くのが一番でしょう。断ち祈願をやめるお祓いがあるというのならわかるまできちんと聞くか、わからないままでも神社におまかせしてお祓いをしていただいてはいかがでしょうか?

ここはお坊さんに質問するところですから仏教の視点からの回答になります。そして既に以前の質問でお坊さんは断ち祈願をいつやめようが問題はないと回答しています。

それでも迷っているのはあなたです。

つまり、あなたが求めているのは「自分の納得」なのではないでしょうか。正しい方法でも、定められた作法でもなく「自分の納得」。

仏教的に見るならばこれが一番の迷いの元です。なぜなら世界は「自分の納得」とは無関係に動いているのですから。

あくまでも、仏教的に言えば作法も正式なやり方もありません。断ち祈願をやめたければいつでもやめたらよろしいと思います。

やめたあとにはこれまで通りあなたにとって良い事も悪い事もあることでしょう。その時にその悪い事の原因を「これは断ち祈願をやめたことが原因なのでは?」という「自分の納得」に求めないことです。
良い事も悪い事もその基準は「自分の納得(モノサシ)」です。物事自体に良いも悪いもありません。良い悪いを評価している自分がいるだけです。自分がいる以上は迷いは続くのです。

迷う者が迷いの元に気づかず迷いにまかせて迷いを深めるのでなく、「ああ私こそが迷いの元だったのだ」と知り、迷いを引き受けていくところに迷いを超える道があります。

最後に私見を述べますが、仏教は因果の教えです。物事には原因があると説きます。断ち祈願でいえば祈願成就という結果は「何かを断つ事自体」が原因ではなく、何かを断つことを「象徴」としてそのくらいの「覚悟」で目的に向かって自分が努力をすることが原因となって成就するのではないでしょうか。
そしてその成就の仕方も「自分の納得」通りに願いが叶うこともあれば、「自分の納得が破られる」という形でより広い願いに目覚めるということもあるでしょう。

どうぞ物事の本質を見失わないように読んで味わってみてください。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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断つことはいかに。

自分の好きなことを断つ、辞めることで願いを叶える。
たしかに、そんな方法もあるかもしれませんが、神様に自分が好きなものを断つことで、願いを叶えてください。というのは筋違いだと思います。
だって神様からしたら、あなたが何を断とうが、あなた自身の誓いであり、神様には関係ないことだと思いませんか。だからそういう意味において願いを叶えるということではないでしょう。
言えることは、それだけ頑張って継続しているという信念ゆえに願いが叶うということです。
もちろん、神仏を信じないということではありません。

神様に願を掛ける。よく聞く言葉ですが、願を掛けたら願ほどき(お礼参り)をすべきです。

今回は、ご自分で、そのように誓いを立てられたのですから、自分でその誓いの解除をするしかありません。
お菓子の件にしても、言われるように社会生活において、どれだけ余計な気を使ったのか、自分自身でも、悩み苦しんだでしょう。ドクターストップなら、それなりの理由がありますが、理由はなんだったのでしょうか。
お菓子されどお菓子ですが、断つことにおいて生じた偽り、苦しみを自分自身で、自分自身を許し、労わることが、解除につながります。

余談ですが、お菓子だから、ある意味ダイエットにつながったかもしれませんが、もっと肉体的にダメージがあるような、水分を取らないとか、食べないとか、寝ないとか、それは肉体をどんなに「いじめ」たのかです。肉体は借り物ですから反省すべきです。

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有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにも...
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質問者からのお礼

自分の心の弱さから色々な事を見失っていた気がします。

落ち着いたら断ち祈願した神社に再度相談し、祈祷か何かして頂こうと思います。

本当にありがとうございました。

「お守り・お札・護符」問答一覧

お寺の御札/お守り等の授与物について

私は千葉県の在住です。成人です。 観音様への関心が強まりまして、 毎月・朔日/月初にお参りに通うなら在住市内に在るお寺の方が良いかなとも考え、検索して近所に見つけましたが、お寺って、中規模以上くらいにならないと、御札等がある程度の種類の取り扱いが無いところが多いな…と思いまして。 自宅の神棚にお祀りして毎朝お祈り/祈願したいのです。 それで、例えば、東京浅草の浅草寺は生まれてから2~3度お邪魔した事はあるのですが、 遠くはないが、行きたい時に難無く赴けるほど近くはない距離感で、郵送での購入を検討していますが、 「Q:普段から正月のお参りやある程度定期的にお詣りして馴染みがある訳でもないのに、御札やお守りだけを頂く事でも本尊様方のご利益に与れるものだろうか?と思いました。」 そこまで考えるのは少し考え過ぎかどうか…。 自宅近所に見つけた車で5分程度の同じ市内のお寺も聖観世音菩薩を御本尊として、他にも不動明王様もいるお寺で行き付けにしているのですが、浅草寺様と同じ観音様だから関連している…と考えて良いものか、と。 普段現地に顔を見せないのに御札だけねだられても…とは浅草寺の観音様も思わないんでしょうけど…。 或いは、その発見した近所のお寺にお参り時に、同等の金額を浄財としてお布施すれば意義的には同じなのかな…とも一縷考えましたが。 ※勿論、一番良いのは直接その場で授与していただける事、何か御祈願したい時にいつでもお参りできる事だとは承知はしているのですが…。

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聖天様のお守りと参拝について

夫婦関係に悩み、初めてのお寺に観音様の参拝に伺いました。事前にHPを拝見し、聖天様と浴油祈祷の記載もありましたが、何のことか私には理解できない事だと思い、観音様の参拝にと伺いました。 参拝後、本堂横の授与所で、あるお守りに惹かれましたが、お寺の方に"観音様ではなく聖天様ですが宜しいですか?"と2度念をおされ、意味はわからないまま"一旦考えさせて下さい"とその場を離れました。 そして聖天様について携帯で調べると、安易に拝むべきでない、信仰するなら一生、辞めると怖い等の情報を目にしました。 その後別の授与所で、お寺の方に"本堂で念を押された意味は何なのか、聖天様が怖い神様だと目にしたこと、私は一生信仰はできないだろうし、お守りを一度も粗末なく扱えると言い切れないので私が授かって良いのか迷っていること"を尋ねました。すると"確かに聖天様は神様なので私達の様な者に対して何をしてるんだ!と気づかせるイタズラはされます。でも一般の方にはないと思いますし、イタズラもせいぜい転ぶ程度です(私が心配する様な一生を左右するような罰はない)。一生信仰できなくても、綺麗に終われば良いです。願いが叶ったらお供えでも浄財でも構わないのでお持ちし、心を込めて感謝すれば大丈夫です。惹かれたということは心が呼ばれているということなのでお求めになれば如何ですか"と言われ、悩んだ挙げ句、"予め聖天様に、もし失礼があったら申し訳ないのですがお守りに惹かれ授からせてくださいとお参りしても良いですか"と聞くと、"良い事だと思います"と言って頂き、何の作法も知らずただ聖天様に手を合わせ、家庭の状況・観音様の参拝に伺ったがお守りに惹かれ授かりたいこと、もし粗相があったら申し訳ありませんと伝えお守りと共に帰宅しました。 その際はとても心強い安心した温かい気持ちになったのですが、その後も聖天様について調べてしまい、怖い気持ちが肥大し、そう思う事自体失礼で申し訳ない様な、でも分不相応な事に手を出してしまったような恐れを抱き質問致しました(以前の問答を読んだ上でまだ恐れてしまう自分がいます)。 お寺の方のお話をただ信じ、聖天様を触らぬ神に祟りなしと恐れず、他の仏様やお守りと同じ様に考えて良いのでしょうか?そもそも一生信仰とは何を指すのでしょうか?聖天様にお願いをしたら別の神様に同じお願いをしてはいけないのも本当ですか?

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