回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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男は度胸、女は愛嬌、坊さんお経。
男は度胸、女は愛嬌、坊さんお経。
昔から?よく聞く言葉ですが、これに尽きるかと思います。
男らしさ=度胸 とお答えします。
もちろん今の時代、理想と致しましては、男性でも女性でも度胸と愛嬌とお経(仏の教え、仏の智慧と慈悲)を兼ね備えていれば最強かつ最高だと思います。
合掌(^人^)
そんなものは「ない」けれど…
シンプルで深いご質問だなと感じました。考え出すと面白いですね。
誰にとってもThis is「男らしさ」という固定的・実体的な答えがあるわけではないでしょう。
よって、「男らしさ」なんてものは「ない」とも言えますし、「言葉の虚構」と言ってもいいかもしれません。
でもね、「男らしくないなあ」なんて言われるシチュエーションは実際に「ある」こともあるんですよね。その時にはその相手からは確かに「男らしさ」が求められているわけです。
つまり「ない」ものを求められた時にそれを「ある」ものとしてそこにに乗っかれる勇気・度胸が「男らしさ」としてそこにはたらく要素かもしれません。
まとめると、「男らしさ」を求める相手に対して、その求められたものに応えられる能力、そして応えようとする気概…結局「男は度胸」とはよく言い表した言葉なのかもしれません。
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以下は例
ビシッと一言言ってくれることを「男らしさ」として求められているのならばそうすることがその相手にとっての「男らしさ」
デートでリードしてくれることを「男らしさ」として求められているのならばそうすることがその相手にとっての「男らしさ」
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相手が求める「男らしさ」に応えようとするあなたの度胸が相手にとっては「あなたの男らしさ」として捉えられるということですね。
「らしさ」はなく、あるのは「私が私であること」
僧侶としての私が考える男らしさは何もありません。また、女らしさについても何もありません。あるのは、他の誰にも代え難い「自分らしさ」でしょうか。
でも、もしかしたら、この自分らしさすらないのかもしれません。あるのは、「私が私であること」。ただそれだけなのかもしれません。
自分のことを規定せず、ありのままに現実を受け入れて生きていくことが出来たら、どんなに幸せなことかと思っています。そのための教えが、私にとっては仏教なのです。
質問者のかずさんの期待に添えるような回答ではないかもしれませんが、私の考えるところを書かせていただきました。