hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

筋の通らぬ夫に今後どうしたらいいのか

回答数回答 1
有り難し有り難し 52

初めて質問させていただきます、どうぞよろしくお願いします。
主人とは大学生のときに知り合い、交際10年を経て結婚。
夫婦生活5年目、子どもはいません。

大学卒業後おじい様がなくなられたのを機に主人が実家に帰ることになり、1年ほどして私もそちらへ移動、結婚、アパート暮らしをはじめました。

結婚後主人がパチンコにはまり借金をしていたことが発覚。
私に内緒にしていた借金を自分ひとりでは返済できず、その心労から軽度の欝に。
仕事もやめてしまったので私の預金と、私の仕事の収入でなんとか生活をしていました。

通院を重ね、2年ほどたち主人もなんとか社会復帰してくれましたが、数日前からまた欝のような症状を見せ始めました。
話を聞いてみると以前した借金の返済がうまくいっていないことが判明。
毎月の返済額は返せているが元金が減らないことに気持ちが沈みやる気がでないとのこと。

今の収入では難しいならば収入を増やすことを考えよう。
当面は私が仕事を増やすので、その間あなたは資格をとる勉強をして今の会社で仕事を続けるのか転職するのか考えようという話し合いをしたのですが、主人の返答は「とれるかもわからない難しい資格の勉強はしたくない」とのこと。
仕事の後に週に1日2日、数時間だけでもアルバイトをしてはどうかと提案しても「疲れてしまうから本業に支障が出る、やりたくない」
家でできるような内職ではどうか、1人でできないときは私も手伝うからという話をしても「ちまちました仕事はしたくない」と。
何度話しても「おわりだ」「破産だ」「もうだめだ」ばかりを繰り返し一向に私の提案を聞いてはくれません。

自分がした借金への返済なのになぜ「なにもしたくない」という結論になるのか
「なにもしたくない」なら現状から上向くことがないので、私が管理すると言っても「自分でできる」の一点張り
ほとほと疲れ果ててしまいました。

交際期間を含め15年、情もあります。
なんとかしたいという私の思いとは裏腹に筋の通らぬ主張を繰り返す主人に、どうしていいのか途方にくれております。
離婚についても視野にいれつつ今後どうしたらいいのか。
主人に今後ともにがんばってもらうためには、どうしたらよいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に自分の人生の事を考えるべき

こんにちは。ザックリ派の丹下です。
こう言っちゃなんですが、思い切って離婚しましょう。
あなたの今後の人生がかかっています。
同情で、情けで自分が不幸になる事はありません。
まだ人生はやり直せます。
離婚を突き付ければ、ご主人は衝撃が走るでしょう。
あなたに対して、守らねばという気持ちが奮起すればまだ見込みアリ。
なければ即離婚でOKです。
それで奮起しない夫と一生を添い遂げる必要はありません。
見限ることだって大切です。
離婚が嫌ならまずベッキョ。
一度ご実家に帰るべきです。
そこでご主人が奮起してくれたならば、そこからの支え、サポートをすることです。
それでも、口ばっかりで行動が無かったらどっちも沈没です。
筋の通らない事をしているご主人に目覚めさせるためにはあなたへの甘えを断ち切ることからです。
(-.-)ジッカニカエリマス  (゚д゚;)!
こういう反応が無ければ、哀しいでしょうがそろそろ決意が必要かと。
「婦人公論」を買って第二の女性ライフを構築いたしましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ