宗教心が一切ありません
私は子供の頃から一度もお守りを持ったことがありません。
初詣に行ったことがなく、寺社に行くのは観光として、葬儀は風習や文化と考えます。
美術展で仏像を見て感動しても、それは美術品としての鑑賞です。
仏教の教えを耳にしても特に神格化はせずに、自分の腑に落ちれば過去の偉人の言葉と同列に受け止めます。
過去の厄年では、お祓いやお守りを受けた友人たちに
「自分は年齢の節目と捉えるけれど、宗教的には何もしない。
例えばキリスト教には厄年の概念は無くお祓いなどしないのだから」と豪語していました。
しかし、この2年間に酷く辛いこと悪いことがたくさん続きまして
さすがの私も心が折れました。何かにすがりたくなりました。
そこで質問です。
1)今の時代には、私のような宗教心のない人はたくさんいると思われます。
そのことを御坊様はどう感じられますか?
2)こんな私が今さら何かにすがろうとするのは、たいへん後ろめたいです。
「ムシが良すぎる」と思います。
我が家は檀家ではないので、どこにどのようにお参りすべきか解りません。
適当に近場で有名な寺社に行くのもどうかと思いますし、
宗派やお寺を決めて毎月説法を聞きに行くなどの宗教活動をするのも、
なんだか行き過ぎで嘘っぽく、自分が打算的な感じがします。
その結果、今さら宗教と関わりを持ち、すがるのは筋違いなような気がしてしまいます。
どう思いますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
宗教心違い
1) 日本では大昔からそういうものです
我が国の仏教公伝は6世紀半ばです。仏教が伝わって何をしたか?それまで直径1メートルのの木材を3本束ねてボンボンボンと掘っ立て柱にし、その上にお社を作っていた(出雲大社)ような建築が礎石に瓦葺き完備、法隆寺の五重塔のような建築に変わりました。法隆寺五重塔は世界で現存最古の木造建築です。
仏教マニア斉明天皇が道に石造の側溝を付けようとしたところ、当時の公家の日記に「気が狂ってしまったようだ」と書き残されたほど理解を得られませんでしたが、今では主要道に側溝が無ければ行政の税金泥棒と言われかねないほど当たり前です。
あるいは経典の研究が進み(例:三経義疏)、国の規範が育ちました。十七条憲法の第十などとても仏教的です。
>十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)wikipediaより
これが日本仏教の始まりです。宗教心?それはキリスト教のイメージとの混同です。今の日本宗教最大の誤りは、宗教心が無いことではなく、その混同が混同であると分からなくなっている点です。
私はhasunohaで「宗教心を持ちましょう、神仏を拝みましょう」とは回答しておりません。「誠実に生きましょう。そうすれば苦を離れることができます。それがお釈迦さまの教えです」と強調し続けています。「宗教を学びましょう」と書いても、全てそのスタンスが土台にあります。宗教に「すがる」という発想は仏教的ではありません。仏教は皆さんのイメージとは丸っきり違うのです。
お祓いは神社ですね。お守りは仏教にもありますが、仏教への導線の一つであって本質ではありません。
2)テキトーに近場の有名なお寺からで結構ですよ。大きなお寺は順路通りにお参りするだけで感覚的に仏教の教えに触れられるよう整備されています。
平安貴族の奥様がたなど「みんなが奈良の長谷寺の観音さま良かったわぁって盛り上がってたのに、私だけ輪に入れなくて悔しかったわ!もう誰がどう言おうと奈良まで行ってやるんだから!!」という感覚でお参りしています。考え過ぎですよ。
質問者からのお礼
大慈様、丁寧なご回答をありがとうございました。
私は仏教、神道、キリスト教のイメージが混同していたようですね。
言葉で適切でないものがあり失礼いたしました。
これを機に正しく学んで違いを理解したいと思いました。
回答を読ませて頂いて、ふと「因果応報」という言葉を思い出しました。
私は因果応報を信じています。この言葉は元々は仏教用語だと聞いています。
宗教心(正しくは信仰心ですね)が無いのにこれを信じているとは不思議なものですね。
今、私に降りかかっている事が応報なのかは判りませんが
大慈様のおっしゃる通り、あらためて誠実に生きたいと思いました。
最後に一言添えて下さった「考え過ぎですよ。」は
涙が出るほど嬉しかったです。お蔭様で心が軽くなりました。
本当にご回答をありがとうございました。