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地獄に行った後をメインにするといくらでも広がる(迷う)
私も詳しくは分かりませんが地獄思想については仏教オリジナルのものではなく古代インドの宗教であるヴェーダの宗教・バラモン教にも説かれていたもののようです。仏教もその影響は多分に受けていることでしょう。
この地獄と他宗教、たとえばキリスト教やイスラム教などに説かれる地獄とのルーツ・起源または概要が一緒なものかどうかは知りません。
八大地獄(八熱地獄)については仏教における原始経典ともされる長阿含経(じょうあごんきょう)や、大智度論、顕宗論などにも説かれているそうですからその成立は相当古いものなのではないでしょうか。
さて、では仏陀釈尊においては地獄というものを元々どのように考えていたのかを原始経典の中でも最古層のものが含まれているとされるダンマパダの地獄の章からいくつかテクストを見てみましょう。
316 、 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
317 、恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
318 、 避けねばならないことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。
いかがでしょうか?これは文章の後段に「悪いところ(地獄)におもむく」と説きながらも、あきらかにメインはその前段である「いかに生きるべきか」という教えを説かんがためのものと読み取れないでしょうか?
つまり釈尊の地獄解釈、そして仏教における地獄の解釈におけるメインの狙いは地獄に赴くことを避けるということを方便(手段)として、今生をいかに生きるかを戒めるというものであったと推測します。
地獄に行ったあとの話しではなく、行く前、つまり今この人生があなたや私にとって一大事なのでしょう。